introspection

取り留めのない考えごとを忘れないための内省的日記

焦燥

ここ一週間くらい実家に帰って自堕落な生活を楽しんでいた。光熱費を気にせず湯船に浸かれたり、暖房をかけられたりすること。自分で食材を買ってきて調理しなくても美味しいご飯が食べられること。昼まで寝ていても何の不都合もないこと。月並みな発言だけれど、実家に居た頃の自分が何気なく享受していたこれらの恵みってのはマジに尊いものだったなと感じる。「いつまでもあると思うな 親と金」とはよく言ったものだ。

 

実は悲しいことに東京でも地元でも、俺がわざわざ会いたいと思う人間や、俺にわざわざ会いたいと思ってくれる人間はそんなに居ない。だから休日は一人で本を読んだりゲームをしたりアニメを観たりしてるわけだけど、そういう自己完結的な時間の過ごし方だって家族がそばに居る中でするのと一人で暮らしている中でするのでは全然違うな。一人暮らしをしながら土曜日と日曜日の二日間連続で誰とも喋らなかったりすると、自分が本当に孤独な人間に思えてきて気が滅入ってしまうことがあるんだな。実家にいる限りは少なくとも夕飯の時なんかは家族と会話をすることができるから、友達や恋人が居なかろうとそこまで悲劇的な気分にならずに済むわけだ。

 

そんな自堕落な時間も、帰省して三日目を過ぎた頃からあまり楽しめなくなってきた。別に何かするべきことがある訳ではないのに、何もしていないことへの罪悪感や焦りから落ち着かない気分になってしまうんだ。それでも何かしようという気は到底起きなくて、結局意味の分からない焦燥感に苛まれながら何もせずゴロゴロして一日を過ごし、そのうちお酒を飲んでそんな気分も忘れてしまうんだな。もし今の自分が突然体調を崩して何も出来なくなってしまったら、精神を病むまでにそれほどの時間はかからないだろうと思う。何か有益っぽい努力をすることで自分を安心させて心の平静を保つなんてことは、多くの人がやっていることではないだろうか?その有益っぽい努力は意外とマジに有益だったりして、それが実を結んで何かで結果を出せたりすることもあるしね。でもその努力は決して自分の信念に根付いたものではないわけだから、誰かに「どうして努力したの?」なんてことを聞かれると、困っちまうよな。もう少し楽チンで楽しい生活の仕方があると思うよ。

アダルトビデオ

少年時代はAVばかり観ていた。特に高校生の頃がピークで、あの年代に活動していた企画単体女優であれば七割くらいは今でも覚えているんじゃないかと思う。そんな俺も大人になって童貞を卒業したわけだが、その時の感想を振り返れば、それは多くの男が口を揃えて言うように「ああ、こんなものか。」といった感じだった。男子あるあるだと思うんだが、高校生くらいになると友達の中で童貞を卒業する奴がちらほら現れはじめるんだよな。それでそいつらの体験談なんかを聞くと、「そんなエロいことがこの世にあっていいの?」と畏怖にも似た感情を抱くわけだ。それでも多くの男は女の子に告白する勇気がなかったり、仮に付き合えても経験不足ゆえどうやってエロい雰囲気に持ち込めばいいのか分からなかったりして、日々悶々としながら童貞なりの学生生活を終えていくんだろう。かくいう俺もそうだった。だからその後生まれて初めてセックスするときは胸が踊り血が騒いだものだけど、終わってみるとなぜか「こんなものか感」が拭いきれなくなるのだ。最近『君の名は。』という映画が大ヒットしたけれど、あれを観に行った時にも同じような感情を抱いた。俺は新海誠のファンだし、『君の名は。』はとても美しくて素晴らしい作品だと思ったんだけど、やっぱり前評判で期待しすぎてしまったのかなと感じる。自分が体験する前に良い評価や評判などをたくさん仕入れてしまうと期待値のハードルがあまりにも高くなってしまって、そのハードルは往々にして越えられることがないんだな。

 

大人になると風俗に行けるようになったり、お酒を飲めるようになったりといったことでセックスのハードルはぐんと下がる。俺の場合は変に潔癖なところがあってそういう遊びはあまりしてこなかったんだけど、普通の男はまあそのへんうまくやってるんだろう。しかし思うのだけれど、やっぱり俺はセックスをするよりAVを観る方が好きだ。AVはセックスを切り取った複製みたいなものかもしれないけど、複製だって長い時間をかけて触れ続ければ、その人にとっては本物よりも親しみ深いものになるだろう。それにAVとセックスには決定的な違いもある。相手の有無だ。やはりセックスには相手がいて、その相手は自分と同じように人格を持っていてものを考えたりする。これは尊くて素晴らしいことだけど、一方で煩わしさやままならなさのようなものも俺は感じる。うまくいえないけれど、例えばみんなが画家だったとして「自分の思うもっとも美しい情景を描こう」と考えた時に、その絵を他の画家と共同で描いたりするだろうか。自分の頭の中にある美しさを描き出そうという所に、他者の頭の中にある美しさが混ざってきてしまえば、もう自分が描きたかったものはぼやけてよく分からなくなってしまうだろう。基本的に物事は人が沢山集まった方が良い方向に転がるものだけど、一方でこういう自己完結的な行いでしか実現できないことっていうのも世の中にはあるんだ。AVとセックスについても俺はそんなことを思ったりするよ、伝われ〜。

ポケモン

ポケモンの新作を買った。発売日に秋葉原のヨドバシに行ったんだけど、夜になってもまだかなりの行列が出来てたな。駅の改札を出た所でもポケモンセンターのブルゾンを着た人が告知ビラを巻いてたし、気合が入っているなという印象だった。

 

今作はストーリーがとても長いとのことなので、まあじっくりまったりやっていこうという感じだ。昨日少しプレイして気付いたのだけど、ジムリーダーは廃止になってしまったんだね。それと、前作までのひでん技もライドポケモンと置き換わる形でなくなっていた。昔からあるシステムが変わっていってしまうと少し寂しい気はするけど、それでも古くからのユーザーならピンとくるようなネタを散りばめてくれている所がいいね。最近あまり時間が無いからガッツリ対戦、みたいなことは出来ないかもしれないけど、もし周りに買った人がいたら一緒に遊ぼうね。特に俺はサンを買ったので、ムーンの人がいたらぜひ。

 

鑑賞

こないだの土日、あまりにも暇だったので録画していた『Re:ゼロから始める異世界生活』のアニメを一気に観た。全25話のアニメなので、1話あたり30分としても単純計算で全て観るには13時間かかる。土曜日の夕方から観始め、途中1時間の仮眠をはさみ次の日の朝8時頃には観終わった。題材も良いし何よりもキャラが可愛くて楽しい作品だった。しかし最終話が引きの強い終わり方だったせいで続きが気になってしまい、Web「小説家になろう」で公開されている原作を読みあさっていたら休日が終わった。食べ物を何も口にいれずお茶と煙草だけで過ごした休日だった。

 

それにしても「小説家になろう」というサイトには時々とても面白い作品を書く素人作家がいるわけだが、みな共通して文章が冗長過ぎやしないだろうか。なまじ話が面白い分そういった冗長さに目を瞑り読み切ってしまうものだから、読了までにあまりにも多くの時間をかけてしまうことになる。これは限られた時間の中でできる限り多くの作品に触れたいと考えている私にとっては不都合なことなのだが、何故だかWeb版原作の文章が簡略化された文庫版を読むと「あれ、なんとなくWeb版のがいいな。」と思ってしまうのだ。自分がその作品の一体どんな部分に良さを見出しているのかということは、時に自分自身にも分からなかったりするということだ。

 

時々このように作品の一気観や一気読みをする度に思うが、面白いと感じた作品を鑑賞する時の私の集中力たるや常人離れした所があると自画自賛したくなる。ひどい時には休日を丸々使って20時間以上連続で作品を鑑賞し続けるものだから、疲れ果てた脳を休めようと眠りについても夢の中でまたその作品を鑑賞していたりする。時には夢の中で作品の世界の中に迷い込んでしまうことすらある。そして眼が覚めればまたその作品を鑑賞したくなり、来る日も来る日もすべきことをそっちのけで作品を鑑賞し続け、遂にその作品が完結を迎えてしまった時には親しい誰かが突然自分のそばから居なくなってしまったかのような空虚感をおぼえる。そんな心に穴が空いてしまったような状態から抜け出すのには少しばかり時間がかかる。概ね1週間から2週間といったところだろう。つまり一つの作品の鑑賞に1週間をかけ、読了後のロスから復帰するのに2週間をかけるとすれば、私はその作品に3週間もの間心のすべてを捧げているということになるのだ。これは作者冥利に尽きるというものではないだろうか。このエントリを丸ごとファンレターとして好きな作家に送りたいものである。

教育と人格形成とスパイラル

小学生の頃、顔がかっこよくてスポーツ万能で成績も優秀というような完璧なやつが居たよな。その逆に顔は醜くて運動も勉強も出来ないようなやつも居たと思う。恐らく日本中どの小学校のどのクラスにだってそういう奴らは居るんじゃないだろうか。

 
子供の頃はそんな人たちを見比べて「不公平だなあ」なんて思っていたけれど、大人になってその格差のからくりが分かってきた。結論から言うと、人間はきっと自信を完全に失くした時点で全てのことが上手くいかなくなっちまうように出来ているんだと思う。
 
小学校に入学して物心がつく頃から、子供は少しずつ集団の中における自分の階層的位置を無意識下で捉え始めるんだ。その判断材料となるものは、例えば容姿だったり足の速さだったり成績といったものだろう。多くの子供達は自分より上の人間と自分より下の人間をみつけて、徐々に可もなく不可もない自分の立ち位置を受け入れるようになる。
 
だけれど、たまに自分より上の人間が集団の中で見つからないような子供がいるね。そいつはきっとこう思うんだ、自分が何でも出来る無敵の人間だって。勿論そんなのは井の中の蛙なのだけれど「自分は出来る」と信じていることはあらゆる分野の成長においてとてつもないアドバンテージを発揮する。何故なら自分が何でも出来ると信じている人間は勉強だって運動だって出来るまでやり続けるからね。その結果出来るようになるし、その成功体験がまた彼らの自信の裏付けになる。そして気が付いたら勉強も運動も集団の中で突出して出来るようになっている。これが正のスパイラルだ。
 
勿論、この逆の負のスパイラルも存在する。これはとても不幸な話だ。自分より下が見つからなかった奴は自分が劣っている人間だと感じる。ここで腐って努力を放棄すれば当然のごとくそいつは落ちぶれていくけれど、何クソ根性で頑張ってもそこには壁が立ちふさがる。それはそいつより少しだけ上に居る奴からの妨害だ。つまり最下層の奴が努力することによって繰り下げで自分が最下位になっちまうことが困る連中は、必死で彼らの足を引っ張ろうとしてくるんだ。それは時にいじめといった形で現れたりするね。
 
もしかしたらこんな上だの下だのといった話は俺の捻くれた脳が生み出した幻想みたいなものかもしれないけれど、俺は物心ついた時にはそんな見方で学校という小さな社会を捉えていたと思う。他の子供たちだって意識的にせよ無意識的にせよ学校での階層的位置、もっと馴染みのある言葉でいえばスクールカーストのようなものを認識していたように感じる。
 
賛否両論はあると思うけど、以上のことを通して思うのは、子供のうちから優れた人間たちの中に身を置くことは必ずしも彼らに良い影響を与えないんじゃないかってことだ。劣った人間ばかりいるところに放り込めという話ではなく、どんな方法を取るにせよやはり子供にはまず「自分が無敵だ」と思い込ませた方が良いような気がするのだ。彼らの可能性を最大限に引き出すためには。

保守

イギリスのEU離脱、アメリカの大統領選挙。いつの時代においてもどんな分野においても、大衆は無気力で、保守に流れる傾向があるようだ。冒頭に挙げたような政治の分野では、それは国粋主義という考え方になって現れる。

 
政治とは全く関係のないソシュールの『一般言語学講義』第1章の言語の不易性の稿を読んで思った。何だって物事を変えるには気力とエネルギーが必要だ。そして知識のある人間はこの二つの力を持っていることが多い。
 
別にリベラル万歳みたいな話ではないけれど、極度に保守的な言説には注意する必要があるってことだ。人間は何も考えなかったらきっとそっちに流れていってしまうのだから。
 
ドナルド・トランプのような人は人間のそんな部分につけこんでくる。今度のアメリカ大統領選挙、共和党が勝利するようなことがあれば世界は間違いなく悪い方向に向かう。

矢印

いいことも悪いことも、自分の行いとは関係のない何かによってもたらされるものと考えれば、気が楽になる。でも、そんな考えの先に進歩はない。

 
身の周りで起こることすべての要因が自分にあると考えて行動を選択する限り、人はいつまでも成長できると思う。そうはいっても、世の中の理不尽な出来事の矢印をすべて自分に向けてたら俺たちはとてもまともじゃいられなくなっちゃうんだな。難しい話だ。