introspection

取り留めのない考えごとを忘れないための内省的日記

カリスマ

カリスマという用語は色々な学問に出てくる。その中で社会学においてはカリスマを、物理的強制や物質的誘因によらず他人を支配できる人間、と定義している。
 
物理的強制っていうのは法学にも出てくる言葉で、まさに法とか警察っていうのがその好例だ。法律を破れば投獄されるし、警察は銃を持っているという点で一般市民に対して優位性をもつ。物質的誘因の例には、会社なんかが挙げられるだろう。会社は労働の対価に賃金を支払う、そのために労働者は会社に与する。上記のものを抜きにして他人を支配し、動かせる人間のことをカリスマと呼ぶわけだ。
 
カリスマの例として、俺がすぐに思いつくのは宗教の教祖だ。少し罰当たりな話かもしれないんだけど、宗教の教祖がもしそのポストについていなかったとしても、彼らのカリスマは彼らのもとにあったのだろうか?カリスマがあったから教祖になったのか、教祖になったからカリスマを得たのか。「卵が先か、鶏が先か。」という形而上学の難しい話みたいになっちゃうんだけど、つまり疑問に感じるのは、カリスマは天性のものなのかどうかってことなんだ。
 
ここからは俺が勝手に立てた立証のしようがない仮説なんだけど、カリスマっていうのは絶対的に存在する概念じゃなくて、他者から感知されることではじめて存在する相対的な概念なのではないだろうか。つまり、他者があいつはカリスマだと思った時にその人間のカリスマは誕生するんだ。宇宙の人間原理みたいな話だ。だから先の問いに戻れば、カリスマは卵じゃなくて鶏なんだろう。
 
そうであるなら、カリスマになりたければ周りに自分がカリスマだと思わせればいい。カリスマとされている人は自分を魅せる才能に長けているんだ。それだけのことだ。

退化

何よりも怖いのは分からないことじゃない、分からなくなることなんだ。

 
習慣で、帰宅した時に集合ポストの中身を確認するようにしている。ポストは二桁のダイヤルロックで施錠されているんだけど、昨日、その二桁の番号がどうしても思い出せなくなった。何時間考えても思い出せない。たった二桁の番号、それにそれまで毎日何の問題もなく思い出せていたのに。ふと考えれば、最近バイトでもケアレスミスが多くなった。講義で扱うような少し難解な論文が読めなくなった。お酒を飲んで記憶をなくすことが多くなった。会話の中で面白い返しがとっさにできなくなった。
 
これは本当に怖い。本気で脳の検査を考えている。いずれこんな風に自分の考えたことをブログに書くことすらできなくなっちまうのかもしれない。そう、最近自分で書いたブログを見返すと、文章が支離滅裂になってたりするんだ…。ちょっとしたホラーだな。
 
そういや、ブログについてだけど、これは別に誰かに読んで欲しくて書いてるわけじゃない。でも、誰かが読んでくれて、同感してくれたり異論をもってくれたりしたならとてもうれしいなあと思う。聞かれてもないのに自分の哲学を語り出す人間はお酒の席でも白い目で見られる。そんなことわかってるんだけど。

性欲

原因は分からないけど、数ヶ月前から性欲がほとんど無くなった。食生活とか健康状態みたいなところも関係してるのかな、分からないけど。

 
性欲が無くなってから、三大欲求のうちの他の二つ、即ち睡眠欲と食欲の発現が恐ろしいことになっている。休みの日は十五時間以上寝るし、吐くまで食べる。そして吐く。
実家で飼っていた黒猫が去勢してからブクブク太り出していたことを思い出した。僕は一体どうなるのだろう。
 
思うに、男性の性欲っていうのは単に生殖活動にのみ用いられるものではない。例を挙げれば、男性特有の闘争本能や、権力に対する欲求なども性欲が由来になっているらしい。それに、性欲が生み出す想像力、いや創造力は案外計り知れない。特に童貞男性のそれは半端がない。創造力によって0から1を生み出すのが天才だとすれば、世の童貞はみなエジソンアインシュタインと肩を並べる天才といっても過言ではない。

整形手術

人の外見っていうのはネット掲示板におけるIDみたいなもので、それ自体が個々を識別する記号のような役割を果たしている。
整形手術によって顔をいじってしまうことは、ネット掲示板で串を刺して書き込むようなもので、ある秩序の中で用いられている識別方式の妥当性を覆してしまう恐れがある。
この秩序の崩壊に対する恐れが、人々が整形手術に抱く漫然とした嫌悪感の正体なのではないか。

目を二重にするのも、脳みそ以外すべてを作り替えてしまうのも、極端にいってしまえば外見を変えるという意味の上では同じことだ。
ある人が一重だった目を二重にした程度であれば、周りの人は整形前のその人と整形後のその人が同一人物であると認識する。でも脳みそ以外すべてを作り替えてしまったらどうだろう?
脳みそ以外すべてが異なった人間を、同一の人間と認識する人は少ないように思う。
つまり問題なのは、整形前と整形後である人が同一人物であるとみなすことができるボーダーラインを設定することができないことだ。
もしそのようなボーダーラインを作り上げることができれば、そのラインの範囲内に収まる限りにおいて、整形手術はもっと社会的に認められてくるような気がする。

インスタント・コミュニケーション

ふと寂しくなることがある。

 
そんな時、実家で暮らしていたなら家族と世間話をしたり、ペットと戯れたりして気を紛らわすことができるのだけど、生憎俺は一人暮らしだ。インターネットのおかげで、俺みたいな一人暮らしで友達のいない寂しい奴も電話線を介して遠くの友達と交流ができる。これ自体は悪いことだとは思わない。むしろ素晴らしいことだ。
 
でも、そういうインスタントなコミュニケーションでは、結局のところ自らの空虚さを埋めることはできない。なぜかはよく分からないが、恐らく、寂しさの解消っていうのは人との交流を始めるにあたる動機として適切ではないのだろう。
 
慢性的に寂しい人の寂しさは、他人との関わりじゃ埋められないんだ。
 
だから、そんな気分になった時は、本や音楽に空虚を埋めてもらうといい。芸術作品の鑑賞は、自己啓発風にいうならば、心の新陳代謝になるからな。
 

最後の日

「今日が最後の日だと思って、毎日全力で生きろ。」的なアレ。

もし明日で死ぬとしたら、俺は全力で今日という日を自暴自棄に生きるわ。
人は未来のために頑張れるんだからな。

逆に、現在頑張ってる人は未来が確実なものじゃないと困るんだな。いきなり明日死ぬなんてことがあったら困る訳だ。
俺は頑張ってないから全く困らない。

俺みたいな人、きっと少なくないと思うな。

努力と忍耐

「頑張る」という動詞がある。
広辞苑によれば、忍耐して、努力し通す。という意味の動詞らしい。
つまり、「頑張る」という動詞は「忍耐」と「努力」という二つの要素から成っている。

上に出てきた忍耐と努力って似た単語のようだけど、実は全然違うものなんだ。これもまた広辞苑によれば、努力とは、目標の実現のために心身を労してつとめること。忍耐とは、つらさ・苦しさ・怒りをじっと我慢すること、とある。

広辞苑が説明してくれているように、努力には目標の実現のために必ず思考が伴うのに対して、忍耐には思考が伴わない。だから努力は人間に成長をもたらすけど、忍耐はそうじゃない。それどころか、思考を殺して苦痛に耐え続けることによるストレスで、退化をもたらすことすらある。(何故か日本では体育会文化にみられるように忍耐が美徳とされる風潮があるけど。)

これは残念なことだと思うんだけど、努力と忍耐を履き違えている人がとても多い。例えば、部活動。同じだけ頑張ったのに、結果を出せるやつと出せないやつがいる。結果を出せなかったやつは「俺だってあいつと同じくらい、いやそれ以上頑張ったのに。」と思うかもしれない。ちょっと前の俺だ。でも、結果を出せなかったやつは根本的に頑張り方を間違っちまってたんじゃないだろうか。もちろん才能の差、環境の差、色々あるだろうけど、俺の周りでスポーツで偉大な結果を残していた人間は皆、思考できる奴だったように思う。

思考できない人間は義務教育が終わってからは、どんどん淘汰されていく。幸いなことに、この国には思考できない人の受け皿があるけど、そこに収まるのは惨めなことだと思う。生まれつきの頭の良し悪しじゃない、どれだけ訓練したかなんだ。だから、努力しよう。分かりやすくいうと、目標を定めて、その実現に至るプロセスを自分の頭で練り上げて、それを実行しよう。と、自分に言い聞かせています。