考えることをやめました
昔から物事を深く考えるのが好きだった。
子供の頃、親が共働きかつ一人っ子だったこともあり、誰かと会話するよりも自分の頭の中でひとりぐるぐると考えを巡らせる機会が多かったからかもしれない。
簡単に暇を潰すゲームやおもちゃを持っていなかった、というのも理由の一つだと思う。
このことは自分の美点であったとも思うけれど、同時に悪癖でもあった。
つまらないことに頭を悩ませて精神的に病んでしまうこともあった。
そんな時、周りからは決まって「そんな余計なこと考えるなよ」と言われていた。
そういえば、このブログもそういう余計なことを書き殴って発散させるために作ったのだった。
社会に出て働くようになってから、この悪癖は大いに自分を悩ませた。
世の中でうまく生きていくためには「考えた方が良いこと」よりも「考えない方が良いこと」の方が圧倒的に多いのだと知った。
そのうち、生き抜くための手段として、自分の思考に意図的に蓋をする術を覚えた。
自分の行動や言動が誰かに及ぼす影響に対して敢えて無頓着であろうとした。
本質は利己的でありながら、それを努めて隠そうとする大人たちの態度を見て、自分もそれに倣った。
そうでもしなければ、俺は会社から脱走して永久に部屋に引きこもることになっていたと思う。
今となってはもう、物事を深く考えたり、他人のの気持ちに寄り添うことができなくなってしまった。
最初は蓋をしていただけだったのに、考えること自体が苦手になってしまった。
感情が大きく動くこともなくなって、昔より生きやすくなったとは思うけど、生きている実感は乏しくなった。
こういう人間は珍しくないと思っている。
むしろ、もしかすると我々が多数派なのではないか、とも。
おっさんにはなぜ可能性がないのか?
おっさんにはなぜ未来の可能性がないのか考察してみる。
まず、人間の可能性の根源は、まさに様々な分岐選択を取り得る不確実性そのものにあるから、一般論で言えばそれは歳を経るごとに漸減するものなんだろうと思う。
アラサーの僕と、10歳の少年が今から同時にプロを志して野球を習い始めたとして、いずれドラフト会議で指名されたり、トライアウトで合格を勝ち取る可能性はどちらの方が高いのか、という話ですね。
これは単純に年齢が若い方が取り得る選択の幅が広いという話である訳ですが、別の側面でもう一点重要なことがあると思っていまして。
それは「その意義や実現可能性が不明瞭な中にあっても、特定の物事に打ち込む力」が、加齢と共に損なわれていくという点にあると思う。
この要因について、考えられるものを挙げてみる。
要因1. 様々な経験を積んできたが故に生じる価値観や思考の固定化
おっさんになると過去の成功・失敗体験に固執するため、未知の物事に対しても既存の手法でアプローチしてしまう。
また、おっさんはやる前からなんとなく自分の力量が把握できているので、背伸びしたチャレンジがしにくい。
要因2. 社会や家庭からの要請
夢を追っている若者は応援されるが、おっさんには「良い歳こいて…」という世間からの容姿ない言葉が降りかかる。
通常おっさんに求められるのは不確実性ではなく、経験に裏付けされた確実性である。
要因3. 気力の低下
単純におっさんになると元気がなくなる。
上記のいずれの要因も実年齢と強く相関するものではなく
どちらかといえば心と身体のコントロール次第なので、意識しておっさん化しないよう努めたいと思いました。
近況メモ
最近、家族が亡くなった。
それをきっかけに昔のことを色々と思い出し、このブログを見つけた。
奇跡的にログインパスワードを覚えていたので、深夜テンションでこれまでのことを振り返って文章を書き留めることにした。
どうせ誰も読んでないしね……。
第一志望だった大学に合格し、進学を機に実家を離れて上京したのは2013年のことだ。
大学時代は楽しかった。一年目は飲み会、学園祭などなど…いわゆる普通の大学生活を楽しんだ。
しかし、大学二年に進級する頃に重大な問題が発生した。
単純に、生活費が底を付いたのだ。
それからというもの、学校にも行かずアルバイトに明け暮れるようになった。ありがちな本末転倒エピソードである。
そして、バイト先で出会った悪友にパチンコと麻雀を教えられ、日銭を酒とギャンブルで溶かし堕落した生活を送り続けた。俺は当然のごとく留年した。
その後、紆余曲折ありながらも両親や指導教官からの経済的、心理的支援のおかげで、なんとか一年遅れで大学を卒業した。
卒業後は「スーツを着るのがイヤだから」というしょうもない理由で映像制作の会社に入社した。
仕事はキツかった。特に最初の2〜3年は睡眠も満足に取れなかったので、当時のことはあまりよく思い出せない。
なんだかずっと夢を見ていたような感じ。
今も惰性六割、責任感三割、情熱一割くらいのバランス感で同じ仕事を続けている。
怠惰と忍耐を両立させながら過ごしてきた十数年であったけれど、それなりに充実した時間だったと、振り返ってみて思う。
でも、後悔していることが三つある。
一つ目は、忙しさを言い訳に昔の友人を大切にしなかったこと。
二つ目は、忙しさを言い訳に自分が本当にやりたいことを実現しようとしなかったこと。
三つ目は、忙しさを言い訳にほとんど親孝行をしなかったこと。
このブログを読み返して思い出した。
自分は自分に自信がある人間だったのだ。
自分のことを頭の良い人間だと思っていた。
才能ある人間だと思っていた。
でも、三十歳手前で何者にもなれない自分に気付いた。
人間の可能性とは、歳をとるごとに目減りしていくものだと思う。
可能性や自信を失った時に支えになるのは結局の所、自分が心の底からやりたいこと、やっていて楽しいこと、自分を大切に想ってくれる人なのだな、と思う。
コミュニケーション能力とは何か
コミュニケーション能力が大事、と一口に言われるけれど、コミュニケーションって一体なんなんだろうね?人に何かを伝える、人から何かを聞く、人と協力する…色々あるけれど、これらに共通するのは主体として「自分」がいて、客体として「他者」がいるということなんじゃないかな。つまり、自己と他者の関係の中で物事を上手くやっていく力のことを、コミュニケーション能力と呼ぶんじゃないだろうか。
当然のことを言っているみたいだけれど、この点を忘れている人って結構いるんじゃないだろうか。単に喋りが達者だったり聞き上手だったりすることが、イコールコミュニケーション能力が高いということになる訳ではないんだな。喋りが達者な人は往々にして人の話を聞かないし、聞き上手を自称する人は大抵自分の話をしない。
コミュニケーションを上手くとるために一番大事なことって、相手を思いやることなんじゃないかと思う。逆に、コミュニケーションが上手くいかない時っていうのは、自分に矢印が向いている時なんだ。例えば、好きな子と喋るときや採用面接のとき、俺らは「目の前の人に嫌われたらどうしよう」って考える。すると、本来相手に向かうべきだった矢印がどんどん自分の内側に向いてしまって、結局伝えたかったことは何一つ伝えられない、、というようなコミュニケーションの失敗が起こる。他にも、議論の場なんかで「何とかして自分の意見を通したい」なんて思っていると、全体として何も建設的な結果が出ないまま終わってしまったりするね。
なぜ自分に矢印が向くとコミュニケーションは上手くいかなくなるのか?なぜなら、そういう時っていうのは大抵集中力が散漫になっているから。だから、人と会話をするとき、きちんと集中して目の前の相手に矢印を向ければ、たとえ口下手でもきっと自分が伝えたいことは相手に伝わるんじゃないかな。
大学入試センター試験の廃止について
センター試験といえば大学入試の登竜門だ。国公立大学に進学しようと思ったら、受験生はまずこの試験を突破しなければならない。最近では私立大学もセンター利用入試を導入しているから、今の大学受験生のほとんどはセンター試験を受けることになるんじゃないかな。
俺たちにとっても思い出深いこのセンター試験だけど、どうやら2019年度入試を最後に廃止されるらしい。代わりに達成度テストなるものが実施されるらしいけど、その内容については現在のところ未定であるとのことだ。
センター試験廃止の目的は、学力至上主義の詰め込み暗記型教育からの脱却だそう。要するに、受験戦士のようなガリ勉を量産する現行の入試制度は捨てて、主体的に周囲と協働して目標達成できる若者を育てられるような仕組みを作りましょうってことだね。
こういう流れはべつに今に始まったものじゃない。数年前に東大や京大が推薦入試を導入したのは記憶に新しいし、各大学は入学後も机上の勉強に留まらない留学やボランティア活動のような課外活動を学生に奨励している。そして、恐らくほとんどの学生が経験することになる民間企業の就職活動においても、こうした課外活動の経験は学業成績以上に重視されている。
こういう流れを悪いことだとは思わない。沢山の場に足を運んで色々な人と交流することでコミュニケーション能力やら主体性といった力は確実に身につくし、ひいてはそれが人間力の向上ってところに繋がるんだろうなと思う。
でも、冒頭の大学入試制度改革については反対なんだ。この改革の目的は学力っていう画一的な評価基準に依らない多様な若者を育てるために提案されたようだけど、俺は逆にこの改革こそが強固な「こうあるべき規範」を作り出して、評価基準の画一化を招く気がするんだね。
どういうことか。少し話は逸れるけど、民間の就職活動において企業が求める人材像っていうのは、業種や職種の垣根を越えてほとんど一致している。耳タコだけど、「主体的に考え、行動できる人」とか「周囲と協働して目標を達成できる人」とか「コミュニケーション能力がある人」っていうのはほとんど全ての企業で歓迎されるね。そして、これらの人物像は大学入試制度改革によって国が作り上げようとしている若者のあり方と完全に一致している。要するに、国は教育システムを大きく変えることで、社会に適応できる若者の総量を増やしたいんだな。少子化やらニート・フリーターの増加が叫ばれてる中でこういう方向に政策の舵が切られるのは、至極妥当なことだと思う。
だけど、街に出たりインターネット上のSNSを観れば分かるように、この国にいるのは上で挙げたようなまともな若者ばかりじゃないんだ。その要因が彼らの内にあるか外にあるかは別として、学校に行かない奴もいるし、他人と話せない奴もいる。かくいう自分も昔はそんな感じだったね。
でもね、現行の大学入試制度では、そんな子たちでも試験で点数さえ取れれば大学に入れるんだ。医学部でもない限り大学入試に面接試験はないから、不登校でもヤンキーでもコミュ障でも筆記試験に合格するだけで東大にだって入れる。東大に入れば人生が変わるなんてことは絶対にないけど、少なくとも何かを変える好機は手に入るんだ。これは今の日本では他にありえないくらい平等なシステムで、落ちこぼれにとっては大きな大きな逆転のチャンスとなる。
しかし、冒頭の制度改革が実際に運用されれば、もはや試験で点数を取るだけではダメになってしまう。学力に加えて人間力も必要になってくるわけだからね。でも、18歳くらいまでの若者が身に付ける人間力っていうのは、親や生まれた環境に依るところがほとんどだと思うんだ。だからこそ、クソな親を持った子供にもチャンスを与えるために、現行の大学入試制度は絶対に必要だと思う。
最後に付け足しておくと、いわゆる高学歴クズなんて呼ばれる、勉強が出来ても人間力が皆無な奴は就職活動で淘汰されることが多いね。でも、それはもう本人の責任だ。なぜなら、就職活動を経験する22歳っていうのは、年齢だけみればもう大人だから。上手くいかないことを親や環境のせいにしていい歳じゃないんだな。このエントリを通して誤解を招きそうだと自分でも思うけど、社会に適応できない奴も認めるべきだって言っている訳ではないんだ。個人的にはそういう人がいてもいいと思ってるけど、国や社会全体の利益っていう観点からみるとやっぱりそれはまずい。そうじゃなくて、周囲にクズや落ちこぼれとして扱われている子供にも、社会で活躍する人間になれるチャンスを与えたいってことなんだ。
もう一度まとめると、外部の環境要因によって上手くいっていない子、もしくは上手くいっていない理由が内にあるか外にあるかまだ判断出来ないような子については、現行の大学入試のような逆転のチャンスを与えてあげようぜってことだ。それに、この制度改革によって大学が民間企業のように自由闊達で人当たりが良くて部活やボランティア活動に積極的に励む高校生のみを集めるようになったら、親や教師は確実に子供達をそういう規範のもとで縛るようになる。それではもはや、自由闊達とは真逆の子供が出来上がってしまうよな。
育ち
俺も小さい頃はそんなに幸せな家庭で育ったわけではなかった。だからなのかは分からないけど、初対面の人と話した時に「なんとなくこの人も特殊な育ちをしたのかな」と察してしまうことがある。必ずしも当たるとは限らないけど、打率八割くらいは維持しているんじゃないだろうか。
もちろん自分も含めてだけど、特殊な育ちをした人っていうのはなぜだか人間的に薄っぺらくみえてしまうことがあるんだ。気を悪くしないでほしい。俺が自分の薄っぺらさに常日頃辟易していて、自分とよく似た他人にその嫌悪感をぶつけてしまっているだけかもしれない。だから全員が全員薄っぺらいなんていうつもりはないんだ。ただそんな人が割合として多いような気がして。
どうしてそんな印象を抱くのか?俺自身の内省も含めてちょっと考えてみた。たぶんだけど、特殊な育ちをした人っていうのは子供の頃に周りの人間の顔色を伺ってきたことが多かったんじゃないだろうか。いや、そうせざるを得なかったともいえるね。俺も小さい頃はいつも家庭内の空気を察知して上手く両親の気持ちを慮っていたな。そうしないと夫婦喧嘩に巻き込まれたり、思わぬとばっちりを食らうことがあったからね。前にも何かのエントリで書いた気がするけど、長く続けている習慣っていうのは大人になっても頭に強固に刻まれ続けるようだ。今となっては必要以上に他人に気を遣う必要なんて全く無いのに、昔の癖が抜けずにとても困っている。
そんな風に自分以外の人間ばかり見つめて行動を決定していると、自分はどんどん他者からみて好ましく、害のない存在に適合化されていってしまう。同年代の子たちが彼ら自身と向き合ってアイデンティティを確立していく中、俺たちはいつだって人の顔色ばっか伺ってたんだ。だから大人になった時、アイデンティティの土台がしっかりと確立されている彼らとの間にはとても大きな差が開いてしまうんだな。
つまり人間的な薄っぺらさっていうのは、確固とした自己というものの欠如がもたらすものなのかもしれない。小さい頃に苦労した分、経験値を与えてレベルアップさせてくれればいいのに、なんて思うけどな。どうやら小さい頃の苦労は、レベルアップどころかレベルダウンを招いてしまうらしい。