introspection

取り留めのない考えごとを忘れないための内省的日記

インスタント・コミュニケーション

ふと寂しくなることがある。

 
そんな時、実家で暮らしていたなら家族と世間話をしたり、ペットと戯れたりして気を紛らわすことができるのだけど、生憎俺は一人暮らしだ。インターネットのおかげで、俺みたいな一人暮らしで友達のいない寂しい奴も電話線を介して遠くの友達と交流ができる。これ自体は悪いことだとは思わない。むしろ素晴らしいことだ。
 
でも、そういうインスタントなコミュニケーションでは、結局のところ自らの空虚さを埋めることはできない。なぜかはよく分からないが、恐らく、寂しさの解消っていうのは人との交流を始めるにあたる動機として適切ではないのだろう。
 
慢性的に寂しい人の寂しさは、他人との関わりじゃ埋められないんだ。
 
だから、そんな気分になった時は、本や音楽に空虚を埋めてもらうといい。芸術作品の鑑賞は、自己啓発風にいうならば、心の新陳代謝になるからな。
 

最後の日

「今日が最後の日だと思って、毎日全力で生きろ。」的なアレ。

もし明日で死ぬとしたら、俺は全力で今日という日を自暴自棄に生きるわ。
人は未来のために頑張れるんだからな。

逆に、現在頑張ってる人は未来が確実なものじゃないと困るんだな。いきなり明日死ぬなんてことがあったら困る訳だ。
俺は頑張ってないから全く困らない。

俺みたいな人、きっと少なくないと思うな。

努力と忍耐

「頑張る」という動詞がある。
広辞苑によれば、忍耐して、努力し通す。という意味の動詞らしい。
つまり、「頑張る」という動詞は「忍耐」と「努力」という二つの要素から成っている。

上に出てきた忍耐と努力って似た単語のようだけど、実は全然違うものなんだ。これもまた広辞苑によれば、努力とは、目標の実現のために心身を労してつとめること。忍耐とは、つらさ・苦しさ・怒りをじっと我慢すること、とある。

広辞苑が説明してくれているように、努力には目標の実現のために必ず思考が伴うのに対して、忍耐には思考が伴わない。だから努力は人間に成長をもたらすけど、忍耐はそうじゃない。それどころか、思考を殺して苦痛に耐え続けることによるストレスで、退化をもたらすことすらある。(何故か日本では体育会文化にみられるように忍耐が美徳とされる風潮があるけど。)

これは残念なことだと思うんだけど、努力と忍耐を履き違えている人がとても多い。例えば、部活動。同じだけ頑張ったのに、結果を出せるやつと出せないやつがいる。結果を出せなかったやつは「俺だってあいつと同じくらい、いやそれ以上頑張ったのに。」と思うかもしれない。ちょっと前の俺だ。でも、結果を出せなかったやつは根本的に頑張り方を間違っちまってたんじゃないだろうか。もちろん才能の差、環境の差、色々あるだろうけど、俺の周りでスポーツで偉大な結果を残していた人間は皆、思考できる奴だったように思う。

思考できない人間は義務教育が終わってからは、どんどん淘汰されていく。幸いなことに、この国には思考できない人の受け皿があるけど、そこに収まるのは惨めなことだと思う。生まれつきの頭の良し悪しじゃない、どれだけ訓練したかなんだ。だから、努力しよう。分かりやすくいうと、目標を定めて、その実現に至るプロセスを自分の頭で練り上げて、それを実行しよう。と、自分に言い聞かせています。

大きな数字

「一人の死は悲劇だが、百万人の死はもはや、統計である。」っていうのは、スターリンの言葉だけど、やっぱり人間の頭っていうのはあまりにも大きな数字は想像できるように作られていないんだなって思う。

例えば、今そっと目を閉じ耳を澄まして秒針の動く音を聴いて、この音をあと二十億回聞いたら俺は死ぬんだ、なんて考えてみても全然ピンと来ないし、日めくりカレンダーをあと二万回破いたら死ぬっていうのもイマイチよく分からない。でも、除夜の鐘をあと五十回聞いたら死ぬってなると、少しだけ死への実感が湧いてくるような気がする。

百万人の死をひとつの統計として捉えるんじゃなくて、一人の死という悲劇が百万回起こったって考えたらどうだろうと思い付いたけど、それでもやっぱり、うまく想像できないな。頭ってほんとにポンコツなところがあるよ。

難しい言葉

自分の意見や考えを発表するときに、やたらと難しい言葉ばかり使う人がたまにいるけど、それもっと簡単な言葉で言ってくれよって思うことがたまにある。でも、俺にもそういう傾向があるかもしれない。

なんでそういうことをしちまうかっていうと、別に難しい言葉を使って悦に入ってるわけじゃなくて(そういう人もいるだろうけど)、単純に難しい言葉の方がより的確に自分の考えを表してくれるからなんだ。よく使われる簡単な言葉っていうのは、意味が過度に一般化されてしまっていて、ミスリードに繋がりがちだからな。

そんな事情がありつつも、簡単な表現の中からうまく言葉を選んで、みんなに伝わるような主張をできる人が、頭のいい人なんだろう。

信用

お笑いを例に挙げれば、人を笑わせるには、「こいつは面白いやつだ」っていう、周りからのある種の信用が必要だよな。信用っていうのは取り戻すのが大変なものだから、一度つまらない奴っていうレッテルを貼られてしまうと、それを払拭するのは難しくなってしまうな。IPPONグランプリみてて思ったわ。

 
大勢の人は、創作そのもの自体よりも、その創作を誰が生み出したかってとこを重視するんだ。

臭いものには蓋

冷蔵庫から賞味期限が二年前に切れたもやしが出てきた。もやしって腐ると液体になるんだ。

「臭いものには蓋」なんていうけど、生活の中には臭いものが溢れていると思う。もう人生はごみ捨て場。
いや、たまに掘り出し物が落ちていることがあるってことも含めてね。

でも、基本的には臭いゴミしか落ちてない。学校の勉強も、仕事も、人間関係も、全部臭い。
そういう臭いもの全てにずっと蓋をしていると、放置されることでさらに腐敗したそれらは、蓋の隙間から悪臭を漏らしはじめて、いずれその存在は俺らにとって目を背けられないものとなる。

そこでやっと蓋を開けてみると中身はめちゃくちゃおぞましいことになってたりするんだ。