introspection

取り留めのない考えごとを忘れないための内省的日記

カリスマ

カリスマという用語は色々な学問に出てくる。その中で社会学においてはカリスマを、物理的強制や物質的誘因によらず他人を支配できる人間、と定義している。
 
物理的強制っていうのは法学にも出てくる言葉で、まさに法とか警察っていうのがその好例だ。法律を破れば投獄されるし、警察は銃を持っているという点で一般市民に対して優位性をもつ。物質的誘因の例には、会社なんかが挙げられるだろう。会社は労働の対価に賃金を支払う、そのために労働者は会社に与する。上記のものを抜きにして他人を支配し、動かせる人間のことをカリスマと呼ぶわけだ。
 
カリスマの例として、俺がすぐに思いつくのは宗教の教祖だ。少し罰当たりな話かもしれないんだけど、宗教の教祖がもしそのポストについていなかったとしても、彼らのカリスマは彼らのもとにあったのだろうか?カリスマがあったから教祖になったのか、教祖になったからカリスマを得たのか。「卵が先か、鶏が先か。」という形而上学の難しい話みたいになっちゃうんだけど、つまり疑問に感じるのは、カリスマは天性のものなのかどうかってことなんだ。
 
ここからは俺が勝手に立てた立証のしようがない仮説なんだけど、カリスマっていうのは絶対的に存在する概念じゃなくて、他者から感知されることではじめて存在する相対的な概念なのではないだろうか。つまり、他者があいつはカリスマだと思った時にその人間のカリスマは誕生するんだ。宇宙の人間原理みたいな話だ。だから先の問いに戻れば、カリスマは卵じゃなくて鶏なんだろう。
 
そうであるなら、カリスマになりたければ周りに自分がカリスマだと思わせればいい。カリスマとされている人は自分を魅せる才能に長けているんだ。それだけのことだ。