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introspection

取り留めのない考えごとを忘れないための内省的日記

難しい外国語と簡単な外国語(言語学的観点から)

どの言語を難しく感じてどの言語を簡単に感じるかは、学習者の母語によって相対的に変わる。例えば、日本人にとっては英語の習得が難しいとよく言われているけれど、これはたぶん正しい。アメリカ国務省機関のFSIが公表している資料では、日本語の習得難易度はアラビア語、中国語、韓国語と共にカテゴリーⅣに分類されており、これは、アメリカ人にとって日本語の習得が非常に困難であることを示している。つまり、逆に考えれば日本人にとって英語を習得することも、それと同等に困難なことなのだ。そこには色々な要因があるけれど、SLA (Second Language Acquisition) というアメリカで発達した言語学の一分野では、母国語と学習言語の言語的距離が離れていれば離れているほど外国語の習得は難しくなると言われている。つまり、日本人にとっての英語が、アメリカ人にとっての日本語が難しいのは、この二つの言語が音韻論的、形態論的、統語論的にとても離れているからだと考えられる。

 

しかし、世界には様々な母国語を持つ人々がいるにも関わらず、世界中の人たちから異口同音に難しいと評される言語がいくつかあるのも事実だ。そうなると、母国語による相対的な難易度はさておいて、絶対的に習得が難しい言語というものが世界には存在するのではないかという疑念が浮かぶ。このような言語として挙げられるものには、例えばロシア語とアラビア語があり、実はこの二つの言語は言語学的によく似た特徴を持っている。専門的な話になるが、言語は大きく分けると屈折語膠着語孤立語の三種類に分類することができる。それぞれの説明と解説は長くなるのでここでは省くが、興味を持った方は調べてみると良いだろう。ロシア語とアラビア語は共に屈折語に属していて、かつ他の屈折語と比較してもかなり屈折的性格の強い言語といえる。屈折というのは簡単にいえば、一つの単語の中に色々な情報を詰め込むということだ。例えば英語の"goes"という単語は、「行く」という意味以外にも、その行為の主体が三人称の単数であることを示している。ここで話は少し逸れるが、なぜ英語は三人称の単数が主語の場合のみ動詞に-sを付けるのだろうか。実は、昔の英語では三人称単数だけではなく、一人称単数も二人称単数もすべて語形変化をしていたんだ。三人称単数の-sはその時代の名残だと考えられる。また、昔の英語では動詞だけでなく、名詞も文中の働きによって格変化をしていた。しかし、現在の英語はそういった意味の分別を全く語順に任せるようになったのだ。そのため、現在の英語は語順にとても厳しい。こういった現象を、屈折的性格の弱化という。先ほど、ロシア語やアラビア語は屈折的性格が強いと述べたが、つまりロシア語やアラビア語は英語と比較すると、名詞も動詞もその文中における役割を示すために色々な形に変化するのだ。このことが、世界中の人々から難しい言語と評される一因になっているように思う。

 

しかし、屈折的性格の強い言語というのは、語形変化のパターンさえ覚えきってしまえば、その運用は英語などよりも簡単になる。なぜなら、先ほども述べたように、屈折的性格の強い言語は単語の文中における役割を示す際に、英語のように語順や前置詞に頼る必要がないからだ。つまり、ロシア語やアラビア語などの言語は学びはじめが難しく、ある程度マスターしてからは比較的使いやすい言語といえる。だが、言語というのは学びはじめが最も根気を要するものなので、このような屈折的性格の強さが両者を学びにくい言語たらしめる要因になっているのだろう。

 

余談だが、ロシア語やアラビア語の正反対、つまり学びはじめが楽な言語は何かと聞かれれば、文法的観点から一つには中国語が挙げられるだろう。その文字の複雑さによってFSIの評価では日本語と同じカテゴリーⅣに分類されているが、我々日本人にとって漢字を使うことはそれほど難しいことではない。しかし、勘の良い方なら気付かれたと思うが、中国語はある程度以上のレベルになってくると途端に運用が難しくなるのだ。なぜなら、中国語は前述の言語の三分類にあてはめると、屈折語とは正反対の孤立語とされるからである。孤立語とは、原則的に一つの単語が一つの意味しか持たない言語のことを指す。例えば、中国語で"去 qu3"といえば、それは「行く」という意味以外にはどんな意味も含まないのだ。これは一見話が早いように感じるが、文が複雑になった時に動作主体が誰なのか分からなくなるという事態を招く。このことはロシア語と比較するととても対称的に映る。ロシア語では「行く」という意味の単語がたくさんある。"идти"「歩いて行く」 "ехать"「乗り物で行く」"летать "「飛んで行く」などなど…。そしてまた、"идти"には"ходить"という亜種がいて、それぞれが定向動詞と不定向動詞の対立を為し、またまた、"идти"から"придти"「歩いて到着する」"уидти "「歩いて去る」という風に接頭辞を用いて意味を付加することもできてしまう。こんなもの学習する方からすれば勘弁してくれという感じだが、ここまで体系が複雑に細分化されていると、語形を見ただけでその単語がどういう役割をしているのかがはっきりと分かる。つまり、英語や中国語で頻繁に起こる「何が何にかかっているのか分からない」という現象があまり見られないのだ。

 

こんな理由もあって、一概にどの言語が難しいとか、どの言語の文法が複雑とか、そういったことは簡単に決めることが出来ない。