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introspection

取り留めのない考えごとを忘れないための内省的日記

異化

異化 - Wikipedia 

異化 (остранение) とは、日常的言語と詩的言語を区別し、(自動化状態にある)事物を「再認」するのではなく、「直視」することで「生の感覚」をとりもどす芸術の一手法だと要約できる。(Wikipedia より引用)

 

こういう難解な文章に立ち向かう時は、まず意味の分からない単語の定義をはっきりとさせなければならない。これは外国語を訳す時にも、日本語を訳す時にも共通して行われるべき過程だ。逆にいえば、この過程がしっかりと履行された上で、文章そのものの論理関係に破綻がなければ、どんな難解な文だって理解することができるというのが言葉の原則だ。

 

まずは「日常的言語」と「詩的言語」だけど、これは字面から類推がきく。日常的言語というのは、我々が普段使う、まさに俺が今ここで書いているような言語のことではないだろうか。対して詩的言語というのは、日本語で例を挙げれば「硫酸かなんぞの雨のようにひりひりとした日のひかり (三島由紀夫 / 花ざかりの森 より)」なんていうような日常では到底使わない、いわば芸術的な表現のことだろう。

 

次に、「再認」と「直視」だ。例えば、俺たちは外に出ればいつだって太陽の光に曝されている。太陽の光に曝されながら、俺たちは「暑いな」って思うんだ。しかし、そんな「暑い」という感覚は俺たちが生まれてから何千回も何万回も味わってきたものだから、「どうして暑いのか」とか「何が俺たちに暑さを感じさせているのか」なんてことを俺たちはいちいち考えない。これは「太陽」を俺たちが繰り返し感じてきた(=再認してきた)ことによって、「太陽」という事物が俺たちの中で自動化されてしまったからだ。逆にいえば、自動化されてしまった「太陽」という事物にもっと目を向けて、「太陽はどうして暑いのか」なんてことを考えてみるのが、「直視」という行為にあたるだろう。

 

最後は「生の感覚」だ。これは今までの単語と比べると少し抽象的で意味が掴みづらいので、個人的な経験に即して説明せざるを得ない。

 

皆は「生きながら死んでる」みたいに感じたことがないだろうか?俺はある。毎日何の学びもなく、ただただ日々を浪費するように過ごしていた時期にそんな感覚をおぼえた。そんな時期に現在との対比で子供の頃を思い出すと「あの頃は生きてるって感じがしたなあ」なんて思うんだ。この言葉では表せない「生きてるって感じ」という感覚的な概念がまさしく「生の感覚」なのではないだろうか。

 

少し脱線するけど、なぜ子供の頃は「生きてるって感じがした」のに、大人になったら「生きながら死んでる」ようになってしまったんだろう?それはたぶん、皆もよく知っていることだと思うけれど、子供の頃っていうのは身の回りで起こることすべてが新鮮なんだ。何もかも初めてみるものばかりで、子供の頃の俺たちは色んなものを「直視」してたんだろうな。でも大人になると、周りにはなんだか見慣れたものばかりが溢れるようになってしまって、俺たちは毎日「再認」を繰り返すだけになっちまう。つまり「再認」に偏った日々が、生きながら死んでる感覚を俺たちにもたらすわけだ。そうであれば、そんな日々を送っている俺たちが生の感覚を取り戻すには、あの頃と同じように色んなものを「直視」してみるしかない。そのために役に立つことの一つが芸術なのだろうね。また、芸術の他にもう一つ挙げるとすれば、学問だってそうかもしれない。学問はどんなものであれ人の価値観や認知といったものを再構築するからだ。このことを簡単に説明すれば、つまり、人間は知っている時と知っていない時で同じものだって全然違うように見てしまう生き物なんだってことだ。

 

閑話休題、これで異化の概念については概ね理解できたのではないかと思う。そこで、考えてみて欲しいのだけど、皆の好きな芸術は作品の中で異化を用いていないだろうか?

 

例えば、上にも書いた三島由紀夫の小説の一節「硫酸かなんぞの雨のようにひりひりとした日のひかり」という表現は、異化の好例ではないだろうか。普段俺たちが目を向けずに再認している太陽の暑さという事物を「硫酸かなんぞの雨のようにひりひり」という比喩表現を使うことで俺たちに直視させている。

 

異化は文学作品のみにみられるものではない。例えば、現代日本のポップカルチャーだって異化を用いている。『君の名は。』という映画で描かれているのは東京や岐阜といった日本に実在するありふれた風景だけれど、あの映画を観てその美しさに感動をおぼえた人は少なくないんじゃないだろうか。つまり新海誠は俺たちが普段暮らしている都会や田舎の風景を映画という芸術手段を用いて異化することにより、俺たちにそれを直視させ、生の感覚を取り戻させてくれたわけだね。

 

このようにみていくと、異化という概念は芸術全体に共通するものであるように俺は思うし、逆に異化が芸術を芸術たらしめているものなんじゃないかとも思う。そんな風に考えると、芸術たりうるものの範囲はぐっと広がっていくんじゃないだろうか。例えばお笑いだってそうだ。日常の中にありながら俺たちがいつもスルーしてしまっている事象を芸人たちはうまく異化して笑いに変えている。笑いだって俺たちに生の感覚をおぼえさせるものの一つだよな。

 

しかし、笑いは芸術だ、なんて言説自体がなんだかサムいし、あまりこういうことは言わない方がいいのかもしれない。ともあれ、昨日のM-1グランプリはとても笑えた。今までで一番面白かったと思ったな、銀シャリおめでとう。おわり。