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introspection

取り留めのない考えごとを忘れないための内省的日記

言語は道具でしかないのか?

言語学を学ぶ以前に、これに答えよという形のレポートを書かされたことがあって、非常に答えに悩んだことを覚えている。これはフランスのバカロレアで哲学の試験として出された問題だそうで、いわれてみればこの問いは確かに言語学の扱う領域を超えている。以前の俺は「言語は確かにコミュニケーションなどに用いられる道具でしかないが、その成り立ちや仕組みは非常に興味深いものである。」という風な質問から逃げた頓狂な答えを書いていた。もしバカロレア試験で同じ答案を書いていたらきっと不合格になっただろう。せっかくなので今一度、この数年で学んだ知識や考え方を総動員してこの問題に挑戦してみたいと思う。

エドワード・サピアベンジャミン・ウォーフの言語的相対論というものを学ぶと、まず言語がコミュニケーションのみに用いられる道具であることは否定することができる。言語的相対論とは、極めて簡単に説明すれば、言語は人間の思考活動や認知活動を規定しているものであるという考え方だ。「我々が悲しみを感じるのは、悲しいという語彙によって感情が規定されているから。」というようなことが例として挙げられる。これに関しては賛否両論があるのだけれど、思考活動という点においては、言語が密接に関わっていることは間違いないはずだ。というか、人間は言語無しには何も考えることが出来ないだろう。今まさに、この文章を書いている時も、俺の頭は「人間は言語無しには何も考えることが出来ないだろう。なぜなら…」というように言語をフル活用しながら思考しているからね。つまり、言語はコミュニケーションだけでなく、思考活動の道具でもあるのだ。

問題なのは、ここまで一方的に言語によって全てを規定され縛られている人間が、果たして言語を「道具」と呼んでいいのかってことだ。俺の知る限りでは、こんなことを述べる言語学者や哲学者は聞いたことがないが、俺は人間の方こそ言語の道具なんじゃないかって思うことがある。ソシュールによれば、言語は恣意的なものだ。この言語の恣意性についても、深い理解をしようとするとそれなりの労力と時間がかかるのだけれど、簡単に言うと、言語が「"木に実る赤くて甘い果物"を"りんご"とする。」と規定すれば、規定された側の人間がそれを勝手に他の名前で呼ぶことは出来ないってことだ。そして別に「りんご」という名前が規定されたことには何の合理的理由はなく、それは全く言語の恣意性によってのみそう規定されたんだな。しかし恣意的であるとはいえ、「りんご」がもし言語によって規定されなかったら、人間はそれを「木に実る赤くて甘い果物」と認識するしかない。では、「木」が規定されなかったら?「実る」が規定されなかったら?「赤い」が規定されなかったら?もう俺たちの世界はちぐはぐになってしまうよな。

こんな風にみていくと、言語の力は人間からみて余りにも圧倒的なように思うんだな。だってそうだろう?勝手に合理的理由もなく決められたものを受け取らされて、認知や思考といったすべての行為はそれを用いて行わなければならないんだ。言語は人間が創り出したものなのに、まるで人間が言語の掌の上で踊らされているように感じるよ。人間が作ったロボットがやがて世界を征服するっていう内容の映画を思い出すね。

気が向いたらつづく。