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introspection

取り留めのない考えごとを忘れないための内省的日記

海外文学

昨年ノーベル文学賞を受賞したベラルーシの作家、スヴェトラーナ・アレクシエーヴィチ氏。名前だけは知っているのだがまだ作品を読むことが出来ていない。彼女の作品はロシア語で書かれているそうなので、近いうちに時間が出来たら原書で読みたいと考えている。

 

ロシア文学といえば、ドストエフスキー罪と罰」やトルストイ戦争と平和」などが有名だ。この二冊は高校生向けの参考図書に入ることもよくあるので、機会があれば読んでみるといいだろう。「罪と罰」は作品自体がかなり長く内容も暗いので、読み切るにはかなりの気力と根気が要る。俺も高校生時代に何度も読もうと思って挫折して、結局読破出来たのは十八歳の頃に大学で強制的に読まされた時だった。その時気付いたのだけれど、こういった海外文学を読む際にどの翻訳者の訳を手に取るかということはとても重要である。原書の意味から少々外れても和文として読みやすく美しい文章に仕上げる翻訳者もいるし、和文としては読みにくい悪文となっても原書の意味を正しく訳す翻訳者もいる。初めて読む人にとってどちらが読みやすいかといえば、当然前者の翻訳だろう。「罪と罰」でいえば恐らく新潮文庫の工藤精一郎訳のものは読みやすく日本語としても美しいといえる。

 

これは俺が以前ロシア語を教わっていたある有名なロシア文学者の先生がおっしゃっていたことだが、海外文学の翻訳者には語学力だけではなく文学的素養が大きく求められるらしい。文学的素養とは、文学センスと言い換えることもできるだろう。語学力さえあれば文章自体を訳すことは出来るが、それに加えて表現力や豊富な語彙など訳者自身の持つ文学センスがなければ美しい日本語訳を作ることは出来ない。だからこそ海外文学の翻訳者といえども、日頃から日本語の文学作品を読むことは欠かさないそうだ。そう考えると、こと海外文学の翻訳という点に限っては、求められるものは外国語の能力よりむしろ日本語の能力なのかもしれない。

 

話は戻るが、ドストエフスキーのロシア語は恐らくメジャーなロシア作家の中では最も難しい。前に強制的に原書を読まされ渋々ながら翻訳を試みたことがあるのだけれど、前述の文学センス云々以前に俺のロシア語力の不足によりかなり難儀することになった。その結果生まれた翻訳はひどいもので講義ではボロクソに怒られたりしたのだけれど、ああいった古典的名作の原書と戦うのはかなり有意義な経験だったように思う。机の片隅に置いた大きな紙辞書を見ながら、この単語の訳はこうした方が美しいだろうかなどと考えるのは読書好きの人間であればきっと好むことだ。そしてそうして生まれた訳はどんなに稚拙であっても、自分という翻訳者自身にとってはきっとベストな訳書になる。なぜなら長い時間をかけて作品に触れるほど、その作品は読み終わったあとも自分の心に残り香のようなものを残すからだ(リゼロについてのエントリでも書いたけど)。だからもし大好きな海外文学作品があってそれをもっと楽しみたいのであれば、いっそその外国語を自分で勉強してしまうのも一つの手かもしれない。