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introspection

取り留めのない考えごとを忘れないための内省的日記

分節

自分の考えを文章に書き起こすというのは、時に難しいことだよ。こうしてほとんど泥酔しているような場合では特にね。でも、極力伝わりやすいよう、誤解のないように書くことはいつだって心がけている。

さて、自分以外にこの世界に存在する他者が自分と同じように思考し、意思決定を行う人間だと仮定すると(敢えて仮定というのは、例えば自分以外の人間がゲームのNPCのような存在でないことを、我々はもちろん証明できないからだね)、我々がこの世界で生きていくには分節という作業が必要不可欠になる。分節ってのは文字通り、ケーキをカットするみたいに物事を分けることだな。これとこれは分ける、これとこれは分けない、そんな風にあらゆる物事を分節していかなければ、我々はこの世界で自我を持って生きていくことは出来ないわけだ。

つまり、自分と他人をしっかり分節していないと、当然の帰結として自分ってものはなくなっちゃうんだな。焼酎と烏龍茶を混ぜてしまった後で、そこから烏龍茶だけを抽出することができないようにね。

まあ、そんなに深く考えなくてもほとんどの人間は分節を生得的な観念として身につけている。だから何も心配はいらないんだ。でもね、俺もみんなも生きていれば混ざり合いたいほどに愛おしい他者に出会うことがあるかもしれない。困ったことに、そんな時だって我々は自分と他者を分節せずにはいられないんだよ。なぜなら分節こそが自分を自分たらしめる唯一の手段だからだ。つまり、自分とは「他者ではないもの」でしかなくて、それ以外に自分を定義するものはまあ恐らく何もないわけだよ。あったら教えてね。

だから、まともなやり方をしている限りにおいては、基本的に人と人は交われない。考えてみれば、こうして言葉にするまでもないあまりにも当然なことなのだけど、このことを孤独と感じてしまうことがあるかも分からないね。ままならないことだ。だけどね、何も交わらなくたって隣に置いておくくらいのことは出来るわけだよ。それで妥協するのはどうだろう?そもそも分節している自分自体いつなくなってしまうか分からないのだから、交わることに固執する必要も、時間もないと思うんだ。

心臓の痛み

昨日の深夜、なんとなく憂鬱な気分になってしまってもう生きるの面倒くさいなあ、なんてことを思っていたら、本当に死にそうになったよ。

 

このブログではあまり書いたことがなかったかな。実は俺はバイクが好きなんだ。バイトで貯めたお金とローンで買ったCBR400Rっていうバイクに乗ってるんだけど、かっこいいしスピードを出すと気持ちが良いしでとにかく最高な乗り物なんだな。昨日みたいに考えごとが過ぎて憂鬱になってしまった夜は、甲州街道とか内堀通りのような昼間は渋滞している都心の道路に出かけるんだ。ガラ空きの道路を飛ばしていると(もちろん法定速度内だよ)、くだらない悩み事なんてどうでも良くなっちゃうんだね。

 

いつも目的地は特に決まっていなくて、昨日は適当に近場を走ったあとコンビニでコーヒーでも飲んで帰ろうかなと思ってたんだ。そしてコンビニの駐車場にバイクを止めて降りた瞬間に、今まで味わったことがないような激痛が心臓を襲った。別に倒れこむほどではなかったけれど、動いたりすることはとても出来なかったな。でも、一分ほどバイクにもたれかかって休んでいたらすぐになんともなくなって、家に帰ってからも特に痛みは感じられなかったからそのまま寝たんだ。

 

それで今日は普通に起きて大学に行ったんだけど、一限の講義を受けていたら昨日よりも激しい痛みがきた。先生に当てられているのに喋ることもできなくて、なんで黙っているんだ、何とか言いなさい、と外国語でまくしたてられたのだけれど、俺はジェスチャーでスミマセンのポーズをとることしか出来なかった。汗を垂らしながら黙り続ける俺を先生がどうみたのかは分からないけど、概ねいつも不真面目な俺のことだから授業を聞いてなかったんだろうなとか、そんな風に思われたに違いない。心外だ。今回も痛み自体はすぐに収まってその後は普通に授業を受けられたんだけど、さすがに怖くなってしまって午後の授業を休んですぐに心電図をとりに行ったんだ。

 

結果は心電図に異常があるとのことだった。医者は生まれつき俺みたいな脈がある人もいると言っていたけれど、今まで何度か心電図検査を受けてきて何もなかったのだから、ここ最近で何か身体に異変が起こったに違いないと俺は考えている。それに脂汗をかくような心臓の痛みって明らかにヤバいだろ。俺の不整脈は心筋炎など死に繋がる病気にもみられる所見とのことだったので、一応採血をしてウイルス感染がないことを確認してくれた。いきなり死んじまう可能性が否定されたのは、ひとまず安心できるね。しかしもっと詳細な検査をする必要があるとのことで、紹介状を書いてもらい来週末に大学病院で診察を受けることになった。この一週間、いつ来るか分からない痛みに怯えて過ごすのは中々きついけれど、一瞬でも死にたいなんて思った罰なんだろうなと思っているよ。とりあえず万が一急に死ぬようなことがないとも限らないから、部屋にある親に見られたくないものは処分しておく必要があるな。予告なく一ヶ月以上このブログの更新が滞るようであれば、きっと俺は死んでるのでその時は是非冥福を祈ってくれ。

 

全くの余談なんだけど、採血ってとても苦手だ。自分の血が身体から抜き取られているのをみると、生命自体を吸い取られるような気がしてしまってマジに怖くなる。だから採血中は絶対に自分の腕を見ないようにしているよ。昔包丁で手を切って大出血した時、自分の血を見たことによるショックで気絶しそうになってしまったからな。他人の血ならなんとも思わないのだけど、自分のだけはダメだね。他人のものに過敏になって自分のものには寛容な潔癖とは全く逆だ。

育ち

俺も小さい頃はそんなに幸せな家庭で育ったわけではなかった。だからなのかは分からないけど、初対面の人と話した時に「なんとなくこの人も特殊な育ちをしたのかな」と察してしまうことがある。必ずしも当たるとは限らないけど、打率八割くらいは維持しているんじゃないだろうか。

 

もちろん自分も含めてだけど、特殊な育ちをした人っていうのはなぜだか人間的に薄っぺらくみえてしまうことがあるんだ。気を悪くしないでほしいな。俺が自分の薄っぺらさに常日頃辟易していて、自分とよく似た他人にその嫌悪感をぶつけてしまっているだけかもしれない。だから全員が全員薄っぺらいなんていうつもりはないんだ。ただそんな人が割合に多いような気がして。

 

どうしてそんな印象を抱くのか?俺自身の内省も含めてちょっと考えてみたよ。たぶんだけど、特殊な育ちをした人っていうのは子供の頃に周りの人間の顔色を伺ってきたことが多かったんじゃないだろうか。いや、そうせざるを得なかったともいえるね。俺も小さい頃はいつも家庭内の空気を察知して上手く両親の気持ちを慮っていたな。そうしないと夫婦喧嘩に巻き込まれたり、思わぬとばっちりを食らうことがあったからね。前にも何かのエントリで書いた気がするけど、長く続けている習慣っていうのは大人になっても頭に強固に刻まれ続けるようだ。今となっては必要以上に他人に気を遣う必要なんて全く無いのに、昔の癖が抜けずに俺も大変困っている。

 

そんな風に自分以外の人間ばかり見つめて行動を決定していると、自分はどんどん他者からみて好ましく、害のない存在に適合化されていってしまう。同年代の子たちが彼ら自身と向き合ってアイデンティティを確立していく中、俺たちはいつだって人の顔色ばっか伺ってたんだ。だから大人になった時、アイデンティティの土台がしっかりと確立されている彼らとの間にはとても大きな差が開いてしまうんだな。

 

つまり人間的な薄っぺらさっていうのは、確固とした自己というものの欠如がもたらすものなのかもしれないね。小さい頃に苦労した分、経験値を与えてレベルアップさせてくれればいいのに、なんて思うけどな。どうやら小さい頃の苦労は、レベルアップどころかレベルダウンを招いてしまうらしい。乾いた笑いが出てきちゃうね。

異化

異化 - Wikipedia 

異化 (остранение) とは、日常的言語と詩的言語を区別し、(自動化状態にある)事物を「再認」するのではなく、「直視」することで「生の感覚」をとりもどす芸術の一手法だと要約できる。(Wikipedia より引用)

 

こういう難解な文章に立ち向かう時は、まず意味の分からない単語の定義をはっきりとさせなければならない。これは外国語を訳す時にも、日本語を訳す時にも共通して行われるべき過程だ。逆にいえば、この過程がしっかりと履行された上で、文章そのものの論理関係に破綻がなければ、どんな難解な文だって理解することができるというのが言葉の原則だ。

 

まずは「日常的言語」と「詩的言語」だけど、これは字面から類推がきく。日常的言語というのは、我々が普段使う、まさに俺が今ここで書いているような言語のことではないだろうか。対して詩的言語というのは、日本語で例を挙げれば「硫酸かなんぞの雨のようにひりひりとした日のひかり (三島由紀夫 / 花ざかりの森 より)」なんていうような日常では到底使わない、いわば芸術的な表現のことだろう。

 

次に、「再認」と「直視」だ。例えば、俺たちは外に出ればいつだって太陽の光に曝されている。太陽の光に曝されながら、俺たちは「暑いな」って思うんだ。しかし、そんな「暑い」という感覚は俺たちが生まれてから何千回も何万回も味わってきたものだから、「どうして暑いのか」とか「何が俺たちに暑さを感じさせているのか」なんてことを俺たちはいちいち考えない。これは「太陽」を俺たちが繰り返し感じてきた(=再認してきた)ことによって、「太陽」という事物が俺たちの中で自動化されてしまったからだ。逆にいえば、自動化されてしまった「太陽」という事物にもっと目を向けて、「太陽はどうして暑いのか」なんてことを考えてみるのが、「直視」という行為にあたるだろう。

 

最後は「生の感覚」だ。これは今までの単語と比べると少し抽象的で意味が掴みづらいので、個人的な経験に即して説明せざるを得ない。

 

皆は「生きながら死んでる」みたいに感じたことがないだろうか?俺はある。毎日何の学びもなく、ただただ日々を浪費するように過ごしていた時期にそんな感覚をおぼえた。そんな時期に現在との対比で子供の頃を思い出すと「あの頃は生きてるって感じがしたなあ」なんて思うんだ。この言葉では表せない「生きてるって感じ」という感覚的な概念がまさしく「生の感覚」なのではないだろうか。

 

少し脱線するけど、なぜ子供の頃は「生きてるって感じがした」のに、大人になったら「生きながら死んでる」ようになってしまったんだろう?それはたぶん、皆もよく知っていることだと思うけれど、子供の頃っていうのは身の回りで起こることすべてが新鮮なんだ。何もかも初めてみるものばかりで、子供の頃の俺たちは色んなものを「直視」してたんだろうな。でも大人になると、周りにはなんだか見慣れたものばかりが溢れるようになってしまって、俺たちは毎日「再認」を繰り返すだけになっちまう。つまり「再認」に偏った日々が、生きながら死んでる感覚を俺たちにもたらすわけだ。そうであれば、そんな日々を送っている俺たちが生の感覚を取り戻すには、あの頃と同じように色んなものを「直視」してみるしかない。そのために役に立つことの一つが芸術なのだろうね。また、芸術の他にもう一つ挙げるとすれば、学問だってそうかもしれない。学問はどんなものであれ人の価値観や認知といったものを再構築するからだ。このことを簡単に説明すれば、つまり、人間は知っている時と知っていない時で同じものだって全然違うように見てしまう生き物なんだってことだ。

 

閑話休題、これで異化の概念については概ね理解できたのではないかと思う。そこで、考えてみて欲しいのだけど、皆の好きな芸術は作品の中で異化を用いていないだろうか?

 

例えば、上にも書いた三島由紀夫の小説の一節「硫酸かなんぞの雨のようにひりひりとした日のひかり」という表現は、異化の好例ではないだろうか。普段俺たちが目を向けずに再認している太陽の暑さという事物を「硫酸かなんぞの雨のようにひりひり」という比喩表現を使うことで俺たちに直視させている。

 

異化は文学作品のみにみられるものではない。例えば、現代日本のポップカルチャーだって異化を用いている。『君の名は。』という映画で描かれているのは東京や岐阜といった日本に実在するありふれた風景だけれど、あの映画を観てその美しさに感動をおぼえた人は少なくないんじゃないだろうか。つまり新海誠は俺たちが普段暮らしている都会や田舎の風景を映画という芸術手段を用いて異化することにより、俺たちにそれを直視させ、生の感覚を取り戻させてくれたわけだね。

 

このようにみていくと、異化という概念は芸術全体に共通するものであるように俺は思うし、逆に異化が芸術を芸術たらしめているものなんじゃないかとも思う。そんな風に考えると、芸術たりうるものの範囲はぐっと広がっていくんじゃないだろうか。例えばお笑いだってそうだ。日常の中にありながら俺たちがいつもスルーしてしまっている事象を芸人たちはうまく異化して笑いに変えている。笑いだって俺たちに生の感覚をおぼえさせるものの一つだよな。

 

しかし、笑いは芸術だ、なんて言説自体がなんだかサムいし、あまりこういうことは言わない方がいいのかもしれない。ともあれ、昨日のM-1グランプリはとても笑えた。今までで一番面白かったと思ったな、銀シャリおめでとう。おわり。

潔癖

潔癖症というほどでもないんだけど、ちょっとした不潔に過敏なところがある。不潔といっても、自分のものなら大丈夫なんだ。そこまで散らかすことはないけど、自分の部屋が汚かろうがそこまで不快には感じないし、変な話、鼻水とか唾液みたいな自分の体液を触ってもなんとも感じない、まあそりゃそうか。汚い、って感じてしまうのは他者の介在があったときなんだ。そもそも、俺自身はそんなに綺麗好きな方ではないからね。他者の介在っていうのは、例えば、水筒の回し飲みとか、一つの皿に盛られた料理をみんなで箸でつついたりするああいうのだ。

 

しかし最近気付いたけれど、親しい人とであれば、回し飲みも直箸も別に不快には感じない。あまり慣れていない人だったり、どこか清潔感のない人だなあと感じている相手だったりすると、ちょっと不快になっちゃうね。そして全く知らない初対面の相手だと、不潔に感じる行為がぐんと多くなる。咳とか鼻をすする音とか咀嚼音とか頭をポリポリする音とか、そんなのですら嫌な気分になるし、生理的嫌悪感を感じる相手だと、喋り声や笑い声を聞くだけで嫌な気分になっちまう。

 

お前は一体何様なんだよって話だと思うけど、俺も治したいなあと思ってる。というのも、俺がこんな風に初対面の人にどこか不潔感を感じていることは、間違いなく相手にも伝わっているんだ。でも、それが原因で嫌われちまったら思われたら悲しいじゃないか。

 

前に、セックスよりAVの方が好き、みたいなことをブログで書いたけど、それは単にこういう理由によるものなのかもしれない。要するに、人と粘液が触れ合うような清潔と言い難い行為は、俺にとってはとてもハードルが高いんだ。そのハードルを超えるには、そんな不潔感すら快いと感じるような人が相手である必要がある。つまり、しっかり付き合っている恋人だね。お酒の勢いで一夜の付き合い、なんてのは俺には到底無理な話だ。もしそんなことになっても、きっと上手くいかないと思う。とっつきにくいとは思うけど、事実上浮気をすることが不可能である所は美点だと思わないか?

 

ちなみに、悪や過ちを許さない性格のことも潔癖と呼んだりするね。俺は精神的な面に関しては全く潔癖ではないなあ。悪や過ちもあって仕方ないと思うし、時には自分も犯してしまうことがあるからな。物理的な潔癖よりも、精神的な潔癖の方が生きにくそうだ。

女の子

たまーに心がエグいくらい綺麗な女の子や、容姿がエグいくらい素敵な女の子がいるね。綺麗とか素敵っていうのは少し表現が足りなくて、そういう人に接すると、言うなれば神に触れたように幸せな気持ちになるんだよ。なぜか男にはそういう感情を抱いたことはないね。

でも、この子も俺や皆と同じ人間なんだよなあと思うと、とっても悲しくなるんだな。心がどんなに綺麗な女の子でも、彼氏より好きな男が出来れば浮気をするかもしれないし、極限まで飢えれば人だって殺しちゃうんだろう。容姿がどんなに素敵な女の子も、いずれはおばあさんになり、灰になっちまう。

ポケモンの美しさを保つために生きたまま彼らを氷漬けにした人物がサンムーンに登場したけど、そんなことをする人の気持ちが分からなくもない。無粋なことだとは知りつつも、いずれ醜くなってしまうのは分かってるわけだから、どうにかして美しい現在の形を切り取って保存したくなってしまう。これは別に女の子に限らず、家族や友人や視覚的な風景、あとは自分自身にも同じことが言える。けれども人間を氷漬けにすることは出来ないから、せめてそれを美しいと感じた時のことを思い出せるように文章を書いたり、写真をとったりするようになったのかもしれない。

かわいい女の子、同じ人間なのは分かってるんだけど、人の悪口なんて言わないんだろうとか、うんこなんてしないんだろうとか、変な期待をしてしまいがちだなあ。

才能

未来には、いくつかの簡単な質問に答えるだけで、自分に何の才能があるのかを言い当ててくれるサイトがあるらしい。ほんの一握りの幸福な者を除いて、多くの人間は自分の才能に気付かないまま死んでゆく、なんてのはもう過去の話になっているようだ。技術の進歩により、数十年後にはほとんど全ての人が自分の持つ才能を自覚出来るようになる。

それは素晴らしいことだ、と俺は思った。現代には、自分の隠れた才能に気付かないまま満足のいかない日々を過ごしている人や、反対に自分に才能がないことに気付かないまま報われない努力を続けて時間を浪費している人が大勢いる。それならば、最初から自分にどんな才能があるのかを教えてもらえれば、こういった不幸を生まずに済むのではないだろうか、と俺は最初に考えたのだ。

しかしよく考えてみれば、人は才能があるからそれを好きになるのではないし、好きだからその才能が芽生えるという訳でもないのだ。つまり俺が才能チェッカーから、あなたにはサッカーの才能がありますよ、なんて言われたとしても、俺は全然嬉しくなんかないんだな。なぜなら俺はサッカーにあまり興味がないからね。自分を好きになってくれる女の子のことを、必ずしも自分が好きになる訳ではないだろう。

そう考えてみると、才能チェッカーなんてのは無意味なものなのかも知れない。自分の赤い糸がどこに繋がっているかということを明らかにされた所で、自分がその運命を好ましく思うかどうかっていうのは全くの別問題なんだ。結局のところ、赤い糸が繋がっていようといなかろうと、俺たちは自分が好きになった相手にひたむきであり続けるしかないんだろう。でも、両想いの時より片想いの時の方が刺激的で楽しいっていう人もいるからね。それに、運命や才能のような誰かが勝手に決めたものに縛られず、自分の大好きなことに真っ直ぐでいることは、とても人間的で美しい行いだと思うよ。それで、そうすることでもし少しでも何かを得ることが出来たなら、俺たちは神様に一矢報いることが出来たような気がして、すごく気持ち良さそうじゃないか。