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introspection

取り留めのない考えごとを忘れないための内省的日記

分節

自分の考えを文章に書き起こすというのは、時に難しいことだよ。こうしてほとんど泥酔しているような場合では特にね。でも、極力伝わりやすいよう、誤解のないように書くことはいつだって心がけている。

さて、自分以外にこの世界に存在する他者が自分と同じように思考し、意思決定を行う人間だと仮定すると(敢えて仮定というのは、例えば自分以外の人間がゲームのNPCのような存在でないことを、我々はもちろん証明できないからだね)、我々がこの世界で生きていくには分節という作業が必要不可欠になる。分節ってのは文字通り、ケーキをカットするみたいに物事を分けることだな。これとこれは分ける、これとこれは分けない、そんな風にあらゆる物事を分節していかなければ、我々はこの世界で自我を持って生きていくことは出来ないわけだ。

つまり、自分と他人をしっかり分節していないと、当然の帰結として自分ってものはなくなっちゃうんだな。焼酎と烏龍茶を混ぜてしまった後で、そこから烏龍茶だけを抽出することができないようにね。

まあ、そんなに深く考えなくてもほとんどの人間は分節を生得的な観念として身につけている。だから何も心配はいらないんだ。でもね、俺もみんなも生きていれば混ざり合いたいほどに愛おしい他者に出会うことがあるかもしれない。困ったことに、そんな時だって我々は自分と他者を分節せずにはいられないんだよ。なぜなら分節こそが自分を自分たらしめる唯一の手段だからだ。つまり、自分とは「他者ではないもの」でしかなくて、それ以外に自分を定義するものはまあ恐らく何もないわけだよ。あったら教えてね。

だから、まともなやり方をしている限りにおいては、基本的に人と人は交われない。考えてみれば、こうして言葉にするまでもないあまりにも当然なことなのだけど、このことを孤独と感じてしまうことがあるかも分からないね。ままならないことだ。だけどね、何も交わらなくたって隣に置いておくくらいのことは出来るわけだよ。それで妥協するのはどうだろう?そもそも分節している自分自体いつなくなってしまうか分からないのだから、交わることに固執する必要も、時間もないと思うんだ。

育ち

俺も小さい頃はそんなに幸せな家庭で育ったわけではなかった。だからなのかは分からないけど、初対面の人と話した時に「なんとなくこの人も特殊な育ちをしたのかな」と察してしまうことがある。必ずしも当たるとは限らないけど、打率八割くらいは維持しているんじゃないだろうか。

 

もちろん自分も含めてだけど、特殊な育ちをした人っていうのはなぜだか人間的に薄っぺらくみえてしまうことがあるんだ。気を悪くしないでほしいな。俺が自分の薄っぺらさに常日頃辟易していて、自分とよく似た他人にその嫌悪感をぶつけてしまっているだけかもしれない。だから全員が全員薄っぺらいなんていうつもりはないんだ。ただそんな人が割合に多いような気がして。

 

どうしてそんな印象を抱くのか?俺自身の内省も含めてちょっと考えてみたよ。たぶんだけど、特殊な育ちをした人っていうのは子供の頃に周りの人間の顔色を伺ってきたことが多かったんじゃないだろうか。いや、そうせざるを得なかったともいえるね。俺も小さい頃はいつも家庭内の空気を察知して上手く両親の気持ちを慮っていたな。そうしないと夫婦喧嘩に巻き込まれたり、思わぬとばっちりを食らうことがあったからね。前にも何かのエントリで書いた気がするけど、長く続けている習慣っていうのは大人になっても頭に強固に刻まれ続けるようだ。今となっては必要以上に他人に気を遣う必要なんて全く無いのに、昔の癖が抜けずに俺も大変困っている。

 

そんな風に自分以外の人間ばかり見つめて行動を決定していると、自分はどんどん他者からみて好ましく、害のない存在に適合化されていってしまう。同年代の子たちが彼ら自身と向き合ってアイデンティティを確立していく中、俺たちはいつだって人の顔色ばっか伺ってたんだ。だから大人になった時、アイデンティティの土台がしっかりと確立されている彼らとの間にはとても大きな差が開いてしまうんだな。

 

つまり人間的な薄っぺらさっていうのは、確固とした自己というものの欠如がもたらすものなのかもしれないね。小さい頃に苦労した分、経験値を与えてレベルアップさせてくれればいいのに、なんて思うけどな。どうやら小さい頃の苦労は、レベルアップどころかレベルダウンを招いてしまうらしい。乾いた笑いが出てきちゃうね。

潔癖

潔癖症というほどでもないんだけど、ちょっとした不潔に過敏なところがある。不潔といっても、自分のものなら大丈夫なんだ。そこまで散らかすことはないけど、自分の部屋が汚かろうがそこまで不快には感じないし、変な話、鼻水とか唾液みたいな自分の体液を触ってもなんとも感じない、まあそりゃそうか。汚い、って感じてしまうのは他者の介在があったときなんだ。そもそも、俺自身はそんなに綺麗好きな方ではないからね。他者の介在っていうのは、例えば、水筒の回し飲みとか、一つの皿に盛られた料理をみんなで箸でつついたりするああいうのだ。

 

しかし最近気付いたけれど、親しい人とであれば、回し飲みも直箸も別に不快には感じない。あまり慣れていない人だったり、どこか清潔感のない人だなあと感じている相手だったりすると、ちょっと不快になっちゃうね。そして全く知らない初対面の相手だと、不潔に感じる行為がぐんと多くなる。咳とか鼻をすする音とか咀嚼音とか頭をポリポリする音とか、そんなのですら嫌な気分になるし、生理的嫌悪感を感じる相手だと、喋り声や笑い声を聞くだけで嫌な気分になっちまう。

 

お前は一体何様なんだよって話だと思うけど、俺も治したいなあと思ってる。というのも、俺がこんな風に初対面の人にどこか不潔感を感じていることは、間違いなく相手にも伝わっているんだ。でも、それが原因で嫌われちまったら思われたら悲しいじゃないか。

 

前に、セックスよりAVの方が好き、みたいなことをブログで書いたけど、それは単にこういう理由によるものなのかもしれない。要するに、人と粘液が触れ合うような清潔と言い難い行為は、俺にとってはとてもハードルが高いんだ。そのハードルを超えるには、そんな不潔感すら快いと感じるような人が相手である必要がある。つまり、しっかり付き合っている恋人だね。お酒の勢いで一夜の付き合い、なんてのは俺には到底無理な話だ。もしそんなことになっても、きっと上手くいかないと思う。とっつきにくいとは思うけど、事実上浮気をすることが不可能である所は美点だと思わないか?

 

ちなみに、悪や過ちを許さない性格のことも潔癖と呼んだりするね。俺は精神的な面に関しては全く潔癖ではないなあ。悪や過ちもあって仕方ないと思うし、時には自分も犯してしまうことがあるからな。物理的な潔癖よりも、精神的な潔癖の方が生きにくそうだ。

女の子

たまーに心がエグいくらい綺麗な女の子や、容姿がエグいくらい素敵な女の子がいるね。綺麗とか素敵っていうのは少し表現が足りなくて、そういう人に接すると、言うなれば神に触れたように幸せな気持ちになるんだよ。なぜか男にはそういう感情を抱いたことはないね。

でも、この子も俺や皆と同じ人間なんだよなあと思うと、とっても悲しくなるんだな。心がどんなに綺麗な女の子でも、彼氏より好きな男が出来れば浮気をするかもしれないし、極限まで飢えれば人だって殺しちゃうんだろう。容姿がどんなに素敵な女の子も、いずれはおばあさんになり、灰になっちまう。

ポケモンの美しさを保つために生きたまま彼らを氷漬けにした人物がサンムーンに登場したけど、そんなことをする人の気持ちが分からなくもない。無粋なことだとは知りつつも、いずれ醜くなってしまうのは分かってるわけだから、どうにかして美しい現在の形を切り取って保存したくなってしまう。これは別に女の子に限らず、家族や友人や視覚的な風景、あとは自分自身にも同じことが言える。けれども人間を氷漬けにすることは出来ないから、せめてそれを美しいと感じた時のことを思い出せるように文章を書いたり、写真をとったりするようになったのかもしれない。

かわいい女の子、同じ人間なのは分かってるんだけど、人の悪口なんて言わないんだろうとか、うんこなんてしないんだろうとか、変な期待をしてしまいがちだなあ。

勉強の有用性

俺も勉強なんてクソの役にも立たないと思っていたけれど、学校で学べる教養や学識っていうのは意外と大事だったりするね。その理由は親や先生がいうように一般常識だからとか、将来恥をかかないためだとか、良い学校に進学するためだとか、まあ色々とあるけれど多分これらは全部正しい。でも、そんなことを言われたって子供たちには何の実感もわかないよな。

バイトで中高生に勉強を教えていた時は、表題の質問に対して「勉強してる人の方が謙虚になれるからじゃない?」と答えていた。そんな答えで彼らが納得してくれたのかは分からないけど、俺は最近そう思う機会がますます増えた。というのも、真面目に勉強をしていると自分が無知であることに気付くんだな。無知の知、なんていうけれど、自分よりも圧倒的にものを知っている人がたくさん居て、自分の知らないことがたくさんあることに気付くわけだ。もちろん、これは勉強に限ったことではないね。スポーツなどでも同じように、本気でやればやるほど上には上が居るってことが分かるようになるよ。ただ、勉強の場合もスポーツの場合も、無知の知を得るためには二つの条件がある。一つは、少なからずそれに真剣に取り組む意思があること。ハナから真面目にやろうとしない奴は謙虚さとかいうレベルにすら達していないわけだから、これは当然だよな。二つ目は、自分の無知や無力を痛感させるほどに優れた存在が周りに居ることだ。

二つ目が意外と大事なんだけど、学校という閉じられた小さな環境では、勉強以外の分野でそういう卓越した存在に出会うことは難しい気がするんだな。スポーツの強豪校とかであれば別かもしれないけどね。勉強の分野、というか学びの分野であれば、優れた存在は学校にたくさんある。学校の先生もそうだし、偉い学者たちが作った教科書もそうだし、図書室にある本なんかも優れた学びの先輩といえるな。少し真面目に勉強をしようと考えてこれらのものに触れると、世界は自分が知らないことだらけだってことに気付くはずだ。

それでね、恐らく横暴の五割くらいは無知に起因するんだ。残りの半分は悪意とか慢心とか、まあ色々あるけど、とにかくこの無知に起因する横暴を防ぐにはどうすればいいんだろう。所詮俺たちはどこまで学んでも無知なわけだから、何もしなければ横暴を招いてしまうんだな。だからこそ、そこで大事なのが、さっきもいった無知の知なんだ。トートロジーのようだけど、知らないことに起因する横暴を防ぐためには、自分が知らないのだということを知っておけばいいのさ。

そういう意味で、学校の勉強に取り組むことが無知の知を得ることに繋がり、それが横暴を防ぐことに繋がり、そしてそのことが最後には謙虚な人間となる助けになるのではないかと俺は思うわけだ。

謙虚な人間であることには、たくさんのメリットがある。まず、謙虚な人間は周りから好かれることが多く、不必要に敵を作ることがないね。また、謙虚な人間は周りの言うことに耳を傾け、そこから何かを得ようとするから、それがまた彼の成長に繋がるんだ。周りの言うことに耳を傾けず、人に嫌われるような横暴な人間になりたくないのであれば、やはり勉強をして謙虚な人間になることはメリットをもたらすと言えるだろう。

最近は横暴かつ批判的で声の大きい人が多くて、なんとなくそうあることがかっこいいのだと勘違いしてしまいそうになるけれど、きっと人間は謙虚であるべきなんだろう。少ない人生経験の中で俺が今まで出会ったスゴい大人達は、みんな謙虚で若者の言うことにもきちんと耳を傾けてくれる人たちだったように思う。

俺もここまで書いて気付いたことだけど、謙虚な人間になる方法は何も勉強だけではないね。スポーツでもなんでも、真剣に取り組んで自分の無力さを知り、その上で努力をしている人はきっと謙虚な人間だと思うよ。ということでまた最初のテーマに立ち戻ると、勉強するメリットはたくさんあるけれど、勉強じゃなくても何か真剣に取り組めることがあるといいね、ってことになるな。

俺も偉そうにこんなことを書いているけれど、どちらかといえば人より真面目ではない方だし、真剣に取り組めることなんて見つけられなかったな。それでも思うのは、無学であれなんであれ、横暴であるべきではないってことだ。少なくとも自分の至らない所を自覚していればそんなことにはならない訳だからね。もし自分が周りと比べて頭が良い、優れている、なんて思い上がりで周囲の人を見下したり軽視しているなら、それは改めた方がいいと言わざるを得ないね。

感傷

何をしても面白くなかったり、周りの人間がみんなクソにみえる時っていうのは、やっぱり自分自身に原因があるよ。自分の身体を毒ガスみたいなものが取り巻いてて、近付いたものを腐らせてしまうっていうイメージだ。比喩的にいえば、遠くの方に綺麗な花畑があって、ワクワクしながらそこに行ってみると、自分を取り巻く毒で周りの花が全部枯れてしまう、みたいな悲しい話になるね。毒タイプは毒タイプらしく毒沼に引きこもっていた方がいいわけだな。遠くをみて綺麗な景色だなあと思うのは勝手だけど、あまりウロウロと動き回って周囲を汚染するべきではないね。

最近なーんだか心の調子がとてもとても悪い。向精神薬一錠で変わってしまうくらいゆらゆらしたものだし、あまり精神とか気分の浮き沈みに振り回されたくないものだけどね。こういう言い方が適切か分からないけど、あまり精神的に強い方じゃないんだろう。なんだか生まれてからずっと心が安定していない気がするよ。理由は色々とあると思うんだけど、たぶん心の反応閾値が低すぎて、たくさんのことに影響を受けてしまうからっていうのが一つありそうだ。

極端な話をすれば、お昼のワイドショーで、スキャンダルを起こした芸能人を批判しているコメンテーターを見るだけで俺は気が滅入っちまうんだな。安全圏から無責任なことをペラペラと喋るのは汚いやり方だよ。イスラム教に石打ちの刑というものがあるけれど、それに例えれば、批判されている人間は地面に埋められていて、ワイドショーのコメンテーターっていうのはその人に向かって遠巻きから石を投げている愚かな民衆にみえるわけだよ。自分が投げた石によって人が死のうが、彼らは何の罪悪感も感じないのさ。石を投げた人間はたくさんいるからね。この手の想像力が欠落した人間ってとても多くて、悲しかったり腹が立ったりで本当にままならないよ。先日、あまり社会のことをよく知らないのに死刑制度について長々と綴ってしまったのは、そんなことを感じたからなんだ。

また俺の大好きなサリンジャーライ麦の話になってしまうけど、まともな神経をしていたら、ホールデンのように全てのものが嫌いになっちまうのはきっと当然のことなんだ。三秋縋という作家が述べていたことだけど、ライ麦という小説が多くの人たちから青春小説とカテゴライズされていることが、世の中にまともな神経をしている人間がとても少ないことを示しているんだな。あの小説を愛読していたという銃乱射事件や大統領暗殺事件の犯人たちのした事が正しいというわけではなく、死ぬまでまともに、ホールデン的に生きようとすれば、人を殺してしまうくらいには気が狂っちまうってことなんじゃないだろうか。そういう意味では、ホールデン厭世観は大人になる過程で乗り越えられるべきものなのかもしれない。そもそもまともな神経で捉えられる世の中ではもはやないんだから、あまり感度が良過ぎるのも問題になってしまうね。繊細であることのメリットなんて、芸術でもやらない限り何ひとつないさ。あなたには他人の痛みが分かるじゃないとよく言われるけれど、それが分かった所で興味を持てなかったり、それを癒してやろうという考えに至らなければ意味がないんだ。俺は周りに幸せをばらまくことで自らが幸せになれるようなタイプではないから、好ましいと思う人以外にお節介を焼きたくはないんだな。そもそも、俺には話をきいて共感すること以外何も出来ないんだ。だからね、これは皮肉では無いんだけど、無責任な助言や説教が出来る無神経な人が羨ましかったりするよ。なぜならそんな無責任なアドバイスが実際に状況を好転させることがあるからね。自分の無責任さや無神経さに気付かないか、気付きつつも目を瞑ることが出来るっていうのは、間違いなく素晴らしい力だよ。

恥ずかしかったり情けなかったり、色々と理由があって友人にはほとんど話さない昔話だけど、このブログを始めたのは二年前に精神科の医者に日記を書きなさいと勧められたからなんだ。周りの人のおかげで、今は元気でもなく鬱でもない普通の人になれたけど、日記を書く習慣だけは続いているよ。後で自分が書いた日記を読み返したり、文章を自分で推敲すると楽しいんだ。でもやっぱり、こんな日記を書きもせず、読んでもくだらねえと思えるような時期が、俺は一番人生が上手くいっている気がするね。だからこれは一つの診断ツールになり得るんだ。もしあなたがこの日記をこんな所まで読んでくれていて、なおかつ共感なんてしてくれているようなら、俺は少し心配になってしまうな。それでも、そんな風に感傷的に物事を考える時間があっても悪くはないと思う。感傷はちょっとした憂鬱を連れてくるけど、これがなくなると俺たちは、不感症の大人になっちまうからね。 そんな風になるには、まだ若すぎるよ。

禁煙

何度か禁煙を試みたことがある。きっかけは色々で、当時の恋人にやんわり喫煙を咎められたからとか、なんとなく顔が老けたと思ったからとか、煙たがられるからとか、まあどれもそんな大した動機じゃない。煙草を吸わない人にはなぜ喫煙者が禁煙に苦労するのか分からないかもしれないが、別に禁煙をすると煙草が吸いたくて吸いたくて気が狂ってしまいそうになる訳ではないんだ。ただなんとなく、長く禁煙を続けていると「もう吸ってもいいかな」と思ってしまう瞬間が来るんだな。例えばお酒の席で周りの人が煙草を吸っている時や、雀荘みたいな煙草くさいところに行った時だね。それと単純に誰かからこっぴどく怒られてムシャクシャした時。あとこれは俺だけかもしれないけれど、読んでいる小説の中で喫煙という行為がやたら感傷的に描かれていたりすると、なんとなく自分も吸いたくなってしまうことがあるね。いずれの場合も共通していえるのは、「もうよくね?」みたいな気持ちになってしまうって所だ。これこそがニコチンの力なのかは分からないけど、禁煙を続けることへの疑念が止まらなくなるんだな。

「健康に悪いっていうけど、まだ若いし平気だろ。」
「煙たがられるのも、非喫煙者がいる空間で煙草を吸わなきゃいい話じゃん。」

といった感じにね。リアルに悪魔の囁きだ。

実は現在進行形で禁煙をしている。というのも俺も昔は走ることが好きで、特にこの季節は夜にランニングに出かけたりしていたんだ。それで最近身体がたるんできてしまったこともあって久々に走ってみたのだけれど、息が全然続かない。胸の真ん中あたりもジンジンするし苦しくて頭も痛くなるしで、結局1kmも走らずにリタイアしたんじゃないだろうか。筋肉の衰えや食生活の悪化もあるし、すべてが喫煙習慣のせいだけではないと思うけど、ここ数年かなりのペースで煙草を吸っていたこともあって、少なくとも1kmすらまともに走れないのはヤバいんじゃないかと考えたわけだ。それに気管の痛みは煙草を吸ってなかった頃に走っていた時は感じなかったものだから、少し健康のことが怖くなったっていうのもある。そんなこんなで今回は健康な身体を取り戻すために禁煙をしてるんだ。まだ三日目だけど、恐らく一週間後には「そもそもこのクソ寒い中走る必要ってなくね?」みたいな言い訳が頭を巡っているんだろうなあ。