潔癖
潔癖症というほどでもないんだけど、ちょっとした不潔に過敏なところがある。不潔といっても、自分のものなら大丈夫なんだ。そこまで散らかすことはないけど、自分の部屋が汚かろうがそこまで不快には感じないし、変な話、鼻水とか唾液みたいな自分の体液を触ってもなんとも感じない、まあそりゃそうか。汚い、って感じてしまうのは他者の介在があったときなんだ。そもそも、俺自身はそんなに綺麗好きな方ではないからね。他者の介在っていうのは、例えば、水筒の回し飲みとか、一つの皿に盛られた料理をみんなで箸でつついたりするああいうのだ。
しかし最近気付いたけれど、親しい人とであれば、回し飲みも直箸も別に不快には感じない。あまり慣れていない人だったり、どこか清潔感のない人だなあと感じている相手だったりすると、ちょっと不快になっちゃうね。そして全く知らない初対面の相手だと、不潔に感じる行為がぐんと多くなる。咳とか鼻をすする音とか咀嚼音とか頭をポリポリする音とか、そんなのですら嫌な気分になるし、生理的嫌悪感を感じる相手だと、喋り声や笑い声を聞くだけで嫌な気分になっちまう。
お前は一体何様なんだよって話だと思うけど、俺も治したいなあと思ってる。というのも、俺がこんな風に初対面の人にどこか不潔感を感じていることは、間違いなく相手にも伝わっているんだ。でも、それが原因で嫌われちまったら思われたら悲しいじゃないか。
前に、セックスよりAVの方が好き、みたいなことをブログで書いたけど、それは単にこういう理由によるものなのかもしれない。要するに、人と粘液が触れ合うような清潔と言い難い行為は、俺にとってはとてもハードルが高いんだ。そのハードルを超えるには、そんな不潔感すら快いと感じるような人が相手である必要がある。つまり、しっかり付き合っている恋人だね。お酒の勢いで一夜の付き合い、なんてのは俺には到底無理な話だ。もしそんなことになっても、きっと上手くいかないと思う。とっつきにくいとは思うけど、事実上浮気をすることが不可能である所は美点だと思わないか?
ちなみに、悪や過ちを許さない性格のことも潔癖と呼んだりするね。俺は精神的な面に関しては全く潔癖ではないなあ。悪や過ちもあって仕方ないと思うし、時には自分も犯してしまうことがあるからな。物理的な潔癖よりも、精神的な潔癖の方が生きにくそうだ。
女の子
勉強の有用性
感傷
禁煙
焦燥
ここ一週間くらい実家に帰って自堕落な生活を楽しんでいた。光熱費を気にせず湯船に浸かれたり、暖房をかけられたりすること。自分で食材を買ってきて調理しなくても美味しいご飯が食べられること。昼まで寝ていても何の不都合もないこと。月並みな発言だけれど、実家に居た頃の自分が何気なく享受していたこれらの恵みってのはマジに尊いものだったなと感じる。「いつまでもあると思うな 親と金」とはよく言ったものだ。
実は悲しいことに東京でも地元でも、俺がわざわざ会いたいと思う人間や、俺にわざわざ会いたいと思ってくれる人間はそんなに居ない。だから休日は一人で本を読んだりゲームをしたりアニメを観たりしてるわけだけど、そういう自己完結的な時間の過ごし方だって家族がそばに居る中でするのと一人で暮らしている中でするのでは全然違うな。一人暮らしをしながら土曜日と日曜日の二日間連続で誰とも喋らなかったりすると、自分が本当に孤独な人間に思えてきて気が滅入ってしまうことがあるんだな。実家にいる限りは少なくとも夕飯の時なんかは家族と会話をすることができるから、友達や恋人が居なかろうとそこまで悲劇的な気分にならずに済むわけだ。
そんな自堕落な時間も、帰省して三日目を過ぎた頃からあまり楽しめなくなってきた。別に何かするべきことがある訳ではないのに、何もしていないことへの罪悪感や焦りから落ち着かない気分になってしまうんだ。それでも何かしようという気は到底起きなくて、結局意味の分からない焦燥感に苛まれながら何もせずゴロゴロして一日を過ごし、そのうちお酒を飲んでそんな気分も忘れてしまうんだな。もし今の自分が突然体調を崩して何も出来なくなってしまったら、精神を病むまでにそれほどの時間はかからないだろうと思う。何か有益っぽい努力をすることで自分を安心させて心の平静を保つなんてことは、多くの人がやっていることではないだろうか?その有益っぽい努力は意外とマジに有益だったりして、それが実を結んで何かで結果を出せたりすることもあるしね。でもその努力は決して自分の信念に根付いたものではないわけだから、誰かに「どうして努力したの?」なんてことを聞かれると、困っちまうよな。もう少し楽チンで楽しい生活の仕方があると思うよ。
アダルトビデオ
少年時代はAVばかり観ていた。特に高校生の頃がピークで、あの年代に活動していた企画単体女優であれば七割くらいは今でも覚えているんじゃないかと思う。そんな俺も大人になって童貞を卒業したわけだが、その時の感想を振り返れば、それは多くの男が口を揃えて言うように「ああ、こんなものか。」といった感じだった。男子あるあるだと思うんだが、高校生くらいになると友達の中で童貞を卒業する奴がちらほら現れはじめるんだよな。それでそいつらの体験談なんかを聞くと、「そんなエロいことがこの世にあっていいの?」と畏怖にも似た感情を抱くわけだ。それでも多くの男は女の子に告白する勇気がなかったり、仮に付き合えても経験不足ゆえどうやってエロい雰囲気に持ち込めばいいのか分からなかったりして、日々悶々としながら童貞なりの学生生活を終えていくんだろう。かくいう俺もそうだった。だからその後生まれて初めてセックスするときは胸が踊り血が騒いだものだけど、終わってみるとなぜか「こんなものか感」が拭いきれなくなるのだ。最近『君の名は。』という映画が大ヒットしたけれど、あれを観に行った時にも同じような感情を抱いた。俺は新海誠のファンだし、『君の名は。』はとても美しくて素晴らしい作品だと思ったんだけど、やっぱり前評判で期待しすぎてしまったのかなと感じる。自分が体験する前に良い評価や評判などをたくさん仕入れてしまうと期待値のハードルがあまりにも高くなってしまって、そのハードルは往々にして越えられることがないんだな。
大人になると風俗に行けるようになったり、お酒を飲めるようになったりといったことでセックスのハードルはぐんと下がる。俺の場合は変に潔癖なところがあってそういう遊びはあまりしてこなかったんだけど、普通の男はまあそのへんうまくやってるんだろう。しかし思うのだけれど、やっぱり俺はセックスをするよりAVを観る方が好きだ。AVはセックスを切り取った複製みたいなものかもしれないけど、複製だって長い時間をかけて触れ続ければ、その人にとっては本物よりも親しみ深いものになるだろう。それにAVとセックスには決定的な違いもある。相手の有無だ。やはりセックスには相手がいて、その相手は自分と同じように人格を持っていてものを考えたりする。これは尊くて素晴らしいことだけど、一方で煩わしさやままならなさのようなものも俺は感じる。うまくいえないけれど、例えばみんなが画家だったとして「自分の思うもっとも美しい情景を描こう」と考えた時に、その絵を他の画家と共同で描いたりするだろうか。自分の頭の中にある美しさを描き出そうという所に、他者の頭の中にある美しさが混ざってきてしまえば、もう自分が描きたかったものはぼやけてよく分からなくなってしまうだろう。基本的に物事は人が沢山集まった方が良い方向に転がるものだけど、一方でこういう自己完結的な行いでしか実現できないことっていうのも世の中にはあるんだ。AVとセックスについても俺はそんなことを思ったりするよ、伝われ〜。