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introspection

取り留めのない考えごとを忘れないための内省的日記

勉強の有用性

俺も勉強なんてクソの役にも立たないと思っていたけれど、学校で学べる教養や学識っていうのは意外と大事だったりするね。その理由は親や先生がいうように一般常識だからとか、将来恥をかかないためだとか、良い学校に進学するためだとか、まあ色々とあるけれど多分これらは全部正しい。でも、そんなことを言われたって子供たちには何の実感もわかないよな。

バイトで中高生に勉強を教えていた時は、表題の質問に対して「勉強してる人の方が謙虚になれるからじゃない?」と答えていた。そんな答えで彼らが納得してくれたのかは分からないけど、俺は最近そう思う機会がますます増えた。というのも、真面目に勉強をしていると自分が無知であることに気付くんだな。無知の知、なんていうけれど、自分よりも圧倒的にものを知っている人がたくさん居て、自分の知らないことがたくさんあることに気付くわけだ。もちろん、これは勉強に限ったことではないね。スポーツなどでも同じように、本気でやればやるほど上には上が居るってことが分かるようになるよ。ただ、勉強の場合もスポーツの場合も、無知の知を得るためには二つの条件がある。一つは、少なからずそれに真剣に取り組む意思があること。ハナから真面目にやろうとしない奴は謙虚さとかいうレベルにすら達していないわけだから、これは当然だよな。二つ目は、自分の無知や無力を痛感させるほどに優れた存在が周りに居ることだ。

二つ目が意外と大事なんだけど、学校という閉じられた小さな環境では、勉強以外の分野でそういう卓越した存在に出会うことは難しい気がするんだな。スポーツの強豪校とかであれば別かもしれないけどね。勉強の分野、というか学びの分野であれば、優れた存在は学校にたくさんある。学校の先生もそうだし、偉い学者たちが作った教科書もそうだし、図書室にある本なんかも優れた学びの先輩といえるな。少し真面目に勉強をしようと考えてこれらのものに触れると、世界は自分が知らないことだらけだってことに気付くはずだ。

それでね、恐らく横暴の五割くらいは無知に起因するんだ。残りの半分は悪意とか慢心とか、まあ色々あるけど、とにかくこの無知に起因する横暴を防ぐにはどうすればいいんだろう。所詮俺たちはどこまで学んでも無知なわけだから、何もしなければ横暴を招いてしまうんだな。だからこそ、そこで大事なのが、さっきもいった無知の知なんだ。トートロジーのようだけど、知らないことに起因する横暴を防ぐためには、自分が知らないのだということを知っておけばいいのさ。

そういう意味で、学校の勉強に取り組むことが無知の知を得ることに繋がり、それが横暴を防ぐことに繋がり、そしてそのことが最後には謙虚な人間となる助けになるのではないかと俺は思うわけだ。

謙虚な人間であることには、たくさんのメリットがある。まず、謙虚な人間は周りから好かれることが多く、不必要に敵を作ることがないね。また、謙虚な人間は周りの言うことに耳を傾け、そこから何かを得ようとするから、それがまた彼の成長に繋がるんだ。周りの言うことに耳を傾けず、人に嫌われるような横暴な人間になりたくないのであれば、やはり勉強をして謙虚な人間になることはメリットをもたらすと言えるだろう。

最近は横暴かつ批判的で声の大きい人が多くて、なんとなくそうあることがかっこいいのだと勘違いしてしまいそうになるけれど、きっと人間は謙虚であるべきなんだろう。少ない人生経験の中で俺が今まで出会ったスゴい大人達は、みんな謙虚で若者の言うことにもきちんと耳を傾けてくれる人たちだったように思う。

俺もここまで書いて気付いたことだけど、謙虚な人間になる方法は何も勉強だけではないね。スポーツでもなんでも、真剣に取り組んで自分の無力さを知り、その上で努力をしている人はきっと謙虚な人間だと思うよ。ということでまた最初のテーマに立ち戻ると、勉強するメリットはたくさんあるけれど、勉強じゃなくても何か真剣に取り組めることがあるといいね、ってことになるな。

俺も偉そうにこんなことを書いているけれど、どちらかといえば人より真面目ではない方だし、真剣に取り組めることなんて見つけられなかったな。それでも思うのは、無学であれなんであれ、横暴であるべきではないってことだ。少なくとも自分の至らない所を自覚していればそんなことにはならない訳だからね。もし自分が周りと比べて頭が良い、優れている、なんて思い上がりで周囲の人を見下したり軽視しているなら、それは改めた方がいいと言わざるを得ないね。

感傷

何をしても面白くなかったり、周りの人間がみんなクソにみえる時っていうのは、やっぱり自分自身に原因があるよ。自分の身体を毒ガスみたいなものが取り巻いてて、近付いたものを腐らせてしまうっていうイメージだ。比喩的にいえば、遠くの方に綺麗な花畑があって、ワクワクしながらそこに行ってみると、自分を取り巻く毒で周りの花が全部枯れてしまう、みたいな悲しい話になるね。毒タイプは毒タイプらしく毒沼に引きこもっていた方がいいわけだな。遠くをみて綺麗な景色だなあと思うのは勝手だけど、あまりウロウロと動き回って周囲を汚染するべきではないね。

最近なーんだか心の調子がとてもとても悪い。向精神薬一錠で変わってしまうくらいゆらゆらしたものだし、あまり精神とか気分の浮き沈みに振り回されたくないものだけどね。こういう言い方が適切か分からないけど、あまり精神的に強い方じゃないんだろう。なんだか生まれてからずっと心が安定していない気がするよ。理由は色々とあると思うんだけど、たぶん心の反応閾値が低すぎて、たくさんのことに影響を受けてしまうからっていうのが一つありそうだ。

極端な話をすれば、お昼のワイドショーで、スキャンダルを起こした芸能人を批判しているコメンテーターを見るだけで俺は気が滅入っちまうんだな。安全圏から無責任なことをペラペラと喋るのは汚いやり方だよ。イスラム教に石打ちの刑というものがあるけれど、それに例えれば、批判されている人間は地面に埋められていて、ワイドショーのコメンテーターっていうのはその人に向かって遠巻きから石を投げている愚かな民衆にみえるわけだよ。自分が投げた石によって人が死のうが、彼らは何の罪悪感も感じないのさ。石を投げた人間はたくさんいるからね。この手の想像力が欠落した人間ってとても多くて、悲しかったり腹が立ったりで本当にままならないよ。先日、あまり社会のことをよく知らないのに死刑制度について長々と綴ってしまったのは、そんなことを感じたからなんだ。

また俺の大好きなサリンジャーライ麦の話になってしまうけど、まともな神経をしていたら、ホールデンのように全てのものが嫌いになっちまうのはきっと当然のことなんだ。三秋縋という作家が述べていたことだけど、ライ麦という小説が多くの人たちから青春小説とカテゴライズされていることが、世の中にまともな神経をしている人間がとても少ないことを示しているんだな。あの小説を愛読していたという銃乱射事件や大統領暗殺事件の犯人たちのした事が正しいというわけではなく、死ぬまでまともに、ホールデン的に生きようとすれば、人を殺してしまうくらいには気が狂っちまうってことなんじゃないだろうか。そういう意味では、ホールデン厭世観は大人になる過程で乗り越えられるべきものなのかもしれない。そもそもまともな神経で捉えられる世の中ではもはやないんだから、あまり感度が良過ぎるのも問題になってしまうね。繊細であることのメリットなんて、芸術でもやらない限り何ひとつないさ。あなたには他人の痛みが分かるじゃないとよく言われるけれど、それが分かった所で興味を持てなかったり、それを癒してやろうという考えに至らなければ意味がないんだ。俺は周りに幸せをばらまくことで自らが幸せになれるようなタイプではないから、好ましいと思う人以外にお節介を焼きたくはないんだな。そもそも、俺には話をきいて共感すること以外何も出来ないんだ。だからね、これは皮肉では無いんだけど、無責任な助言や説教が出来る無神経な人が羨ましかったりするよ。なぜならそんな無責任なアドバイスが実際に状況を好転させることがあるからね。自分の無責任さや無神経さに気付かないか、気付きつつも目を瞑ることが出来るっていうのは、間違いなく素晴らしい力だよ。

恥ずかしかったり情けなかったり、色々と理由があって友人にはほとんど話さない昔話だけど、このブログを始めたのは二年前に精神科の医者に日記を書きなさいと勧められたからなんだ。周りの人のおかげで、今は元気でもなく鬱でもない普通の人になれたけど、日記を書く習慣だけは続いているよ。後で自分が書いた日記を読み返したり、文章を自分で推敲すると楽しいんだ。でもやっぱり、こんな日記を書きもせず、読んでもくだらねえと思えるような時期が、俺は一番人生が上手くいっている気がするね。だからこれは一つの診断ツールになり得るんだ。もしあなたがこの日記をこんな所まで読んでくれていて、なおかつ共感なんてしてくれているようなら、俺は少し心配になってしまうな。それでも、そんな風に感傷的に物事を考える時間があっても悪くはないと思う。感傷はちょっとした憂鬱を連れてくるけど、これがなくなると俺たちは、不感症の大人になっちまうからね。 そんな風になるには、まだ若すぎるよ。

禁煙

何度か禁煙を試みたことがある。きっかけは色々で、当時の恋人にやんわり喫煙を咎められたからとか、なんとなく顔が老けたと思ったからとか、煙たがられるからとか、まあどれもそんな大した動機じゃない。煙草を吸わない人にはなぜ喫煙者が禁煙に苦労するのか分からないかもしれないが、別に禁煙をすると煙草が吸いたくて吸いたくて気が狂ってしまいそうになる訳ではないんだ。ただなんとなく、長く禁煙を続けていると「もう吸ってもいいかな」と思ってしまう瞬間が来るんだな。例えばお酒の席で周りの人が煙草を吸っている時や、雀荘みたいな煙草くさいところに行った時だね。それと単純に誰かからこっぴどく怒られてムシャクシャした時。あとこれは俺だけかもしれないけれど、読んでいる小説の中で喫煙という行為がやたら感傷的に描かれていたりすると、なんとなく自分も吸いたくなってしまうことがあるね。いずれの場合も共通していえるのは、「もうよくね?」みたいな気持ちになってしまうって所だ。これこそがニコチンの力なのかは分からないけど、禁煙を続けることへの疑念が止まらなくなるんだな。

「健康に悪いっていうけど、まだ若いし平気だろ。」
「煙たがられるのも、非喫煙者がいる空間で煙草を吸わなきゃいい話じゃん。」

といった感じにね。リアルに悪魔の囁きだ。

実は現在進行形で禁煙をしている。というのも俺も昔は走ることが好きで、特にこの季節は夜にランニングに出かけたりしていたんだ。それで最近身体がたるんできてしまったこともあって久々に走ってみたのだけれど、息が全然続かない。胸の真ん中あたりもジンジンするし苦しくて頭も痛くなるしで、結局1kmも走らずにリタイアしたんじゃないだろうか。筋肉の衰えや食生活の悪化もあるし、すべてが喫煙習慣のせいだけではないと思うけど、ここ数年かなりのペースで煙草を吸っていたこともあって、少なくとも1kmすらまともに走れないのはヤバいんじゃないかと考えたわけだ。それに気管の痛みは煙草を吸ってなかった頃に走っていた時は感じなかったものだから、少し健康のことが怖くなったっていうのもある。そんなこんなで今回は健康な身体を取り戻すために禁煙をしてるんだ。まだ三日目だけど、恐らく一週間後には「そもそもこのクソ寒い中走る必要ってなくね?」みたいな言い訳が頭を巡っているんだろうなあ。

焦燥

ここ一週間くらい実家に帰って自堕落な生活を楽しんでいた。光熱費を気にせず湯船に浸かれたり、暖房をかけられたりすること。自分で食材を買ってきて調理しなくても美味しいご飯が食べられること。昼まで寝ていても何の不都合もないこと。月並みな発言だけれど、実家に居た頃の自分が何気なく享受していたこれらの恵みってのはマジに尊いものだったなと感じる。「いつまでもあると思うな 親と金」とはよく言ったものだ。

 

実は悲しいことに東京でも地元でも、俺がわざわざ会いたいと思う人間や、俺にわざわざ会いたいと思ってくれる人間はそんなに居ない。だから休日は一人で本を読んだりゲームをしたりアニメを観たりしてるわけだけど、そういう自己完結的な時間の過ごし方だって家族がそばに居る中でするのと一人で暮らしている中でするのでは全然違うな。一人暮らしをしながら土曜日と日曜日の二日間連続で誰とも喋らなかったりすると、自分が本当に孤独な人間に思えてきて気が滅入ってしまうことがあるんだな。実家にいる限りは少なくとも夕飯の時なんかは家族と会話をすることができるから、友達や恋人が居なかろうとそこまで悲劇的な気分にならずに済むわけだ。

 

そんな自堕落な時間も、帰省して三日目を過ぎた頃からあまり楽しめなくなってきた。別に何かするべきことがある訳ではないのに、何もしていないことへの罪悪感や焦りから落ち着かない気分になってしまうんだ。それでも何かしようという気は到底起きなくて、結局意味の分からない焦燥感に苛まれながら何もせずゴロゴロして一日を過ごし、そのうちお酒を飲んでそんな気分も忘れてしまうんだな。もし今の自分が突然体調を崩して何も出来なくなってしまったら、精神を病むまでにそれほどの時間はかからないだろうと思う。何か有益っぽい努力をすることで自分を安心させて心の平静を保つなんてことは、多くの人がやっていることではないだろうか?その有益っぽい努力は意外とマジに有益だったりして、それが実を結んで何かで結果を出せたりすることもあるしね。でもその努力は決して自分の信念に根付いたものではないわけだから、誰かに「どうして努力したの?」なんてことを聞かれると、困っちまうよな。もう少し楽チンで楽しい生活の仕方があると思うよ。

アダルトビデオ

少年時代はAVばかり観ていた。特に高校生の頃がピークで、あの年代に活動していた企画単体女優であれば七割くらいは今でも覚えているんじゃないかと思う。そんな俺も大人になって童貞を卒業したわけだが、その時の感想を振り返れば、それは多くの男が口を揃えて言うように「ああ、こんなものか。」といった感じだった。男子あるあるだと思うんだが、高校生くらいになると友達の中で童貞を卒業する奴がちらほら現れはじめるんだよな。それでそいつらの体験談なんかを聞くと、「そんなエロいことがこの世にあっていいの?」と畏怖にも似た感情を抱くわけだ。それでも多くの男は女の子に告白する勇気がなかったり、仮に付き合えても経験不足ゆえどうやってエロい雰囲気に持ち込めばいいのか分からなかったりして、日々悶々としながら童貞なりの学生生活を終えていくんだろう。かくいう俺もそうだった。だからその後生まれて初めてセックスするときは胸が踊り血が騒いだものだけど、終わってみるとなぜか「こんなものか感」が拭いきれなくなるのだ。最近『君の名は。』という映画が大ヒットしたけれど、あれを観に行った時にも同じような感情を抱いた。俺は新海誠のファンだし、『君の名は。』はとても美しくて素晴らしい作品だと思ったんだけど、やっぱり前評判で期待しすぎてしまったのかなと感じる。自分が体験する前に良い評価や評判などをたくさん仕入れてしまうと期待値のハードルがあまりにも高くなってしまって、そのハードルは往々にして越えられることがないんだな。

 

大人になると風俗に行けるようになったり、お酒を飲めるようになったりといったことでセックスのハードルはぐんと下がる。俺の場合は変に潔癖なところがあってそういう遊びはあまりしてこなかったんだけど、普通の男はまあそのへんうまくやってるんだろう。しかし思うのだけれど、やっぱり俺はセックスをするよりAVを観る方が好きだ。AVはセックスを切り取った複製みたいなものかもしれないけど、複製だって長い時間をかけて触れ続ければ、その人にとっては本物よりも親しみ深いものになるだろう。それにAVとセックスには決定的な違いもある。相手の有無だ。やはりセックスには相手がいて、その相手は自分と同じように人格を持っていてものを考えたりする。これは尊くて素晴らしいことだけど、一方で煩わしさやままならなさのようなものも俺は感じる。うまくいえないけれど、例えばみんなが画家だったとして「自分の思うもっとも美しい情景を描こう」と考えた時に、その絵を他の画家と共同で描いたりするだろうか。自分の頭の中にある美しさを描き出そうという所に、他者の頭の中にある美しさが混ざってきてしまえば、もう自分が描きたかったものはぼやけてよく分からなくなってしまうだろう。基本的に物事は人が沢山集まった方が良い方向に転がるものだけど、一方でこういう自己完結的な行いでしか実現できないことっていうのも世の中にはあるんだ。AVとセックスについても俺はそんなことを思ったりするよ、伝われ〜。

ポケモン

ポケモンの新作を買った。発売日に秋葉原のヨドバシに行ったんだけど、夜になってもまだかなりの行列が出来てたな。駅の改札を出た所でもポケモンセンターのブルゾンを着た人が告知ビラを巻いてたし、気合が入っているなという印象だった。

 

今作はストーリーがとても長いとのことなので、まあじっくりまったりやっていこうという感じだ。昨日少しプレイして気付いたのだけど、ジムリーダーは廃止になってしまったんだね。それと、前作までのひでん技もライドポケモンと置き換わる形でなくなっていた。昔からあるシステムが変わっていってしまうと少し寂しい気はするけど、それでも古くからのユーザーならピンとくるようなネタを散りばめてくれている所がいいね。最近あまり時間が無いからガッツリ対戦、みたいなことは出来ないかもしれないけど、もし周りに買った人がいたら一緒に遊ぼうね。特に俺はサンを買ったので、ムーンの人がいたらぜひ。

 

鑑賞

こないだの土日、あまりにも暇だったので録画していた『Re:ゼロから始める異世界生活』のアニメを一気に観た。全25話のアニメなので、1話あたり30分としても単純計算で全て観るには13時間かかる。土曜日の夕方から観始め、途中1時間の仮眠をはさみ次の日の朝8時頃には観終わった。題材も良いし何よりもキャラが可愛くて楽しい作品だった。しかし最終話が引きの強い終わり方だったせいで続きが気になってしまい、Web「小説家になろう」で公開されている原作を読みあさっていたら休日が終わった。食べ物を何も口にいれずお茶と煙草だけで過ごした休日だった。

 

それにしても「小説家になろう」というサイトには時々とても面白い作品を書く素人作家がいるわけだが、みな共通して文章が冗長過ぎやしないだろうか。なまじ話が面白い分そういった冗長さに目を瞑り読み切ってしまうものだから、読了までにあまりにも多くの時間をかけてしまうことになる。これは限られた時間の中でできる限り多くの作品に触れたいと考えている私にとっては不都合なことなのだが、何故だかWeb版原作の文章が簡略化された文庫版を読むと「あれ、なんとなくWeb版のがいいな。」と思ってしまうのだ。自分がその作品の一体どんな部分に良さを見出しているのかということは、時に自分自身にも分からなかったりするということだ。

 

時々このように作品の一気観や一気読みをする度に思うが、面白いと感じた作品を鑑賞する時の私の集中力たるや常人離れした所があると自画自賛したくなる。ひどい時には休日を丸々使って20時間以上連続で作品を鑑賞し続けるものだから、疲れ果てた脳を休めようと眠りについても夢の中でまたその作品を鑑賞していたりする。時には夢の中で作品の世界の中に迷い込んでしまうことすらある。そして眼が覚めればまたその作品を鑑賞したくなり、来る日も来る日もすべきことをそっちのけで作品を鑑賞し続け、遂にその作品が完結を迎えてしまった時には親しい誰かが突然自分のそばから居なくなってしまったかのような空虚感をおぼえる。そんな心に穴が空いてしまったような状態から抜け出すのには少しばかり時間がかかる。概ね1週間から2週間といったところだろう。つまり一つの作品の鑑賞に1週間をかけ、読了後のロスから復帰するのに2週間をかけるとすれば、私はその作品に3週間もの間心のすべてを捧げているということになるのだ。これは作者冥利に尽きるというものではないだろうか。このエントリを丸ごとファンレターとして好きな作家に送りたいものである。