introspection

取り留めのない考えごとを忘れないための内省的日記

鑑賞

こないだの土日、あまりにも暇だったので録画していた『Re:ゼロから始める異世界生活』のアニメを一気に観た。全25話のアニメなので、1話あたり30分としても単純計算で全て観るには13時間かかる。土曜日の夕方から観始め、途中1時間の仮眠をはさみ次の日の朝8時頃には観終わった。題材も良いし何よりもキャラが可愛くて楽しい作品だった。しかし最終話が引きの強い終わり方だったせいで続きが気になってしまい、Web「小説家になろう」で公開されている原作を読みあさっていたら休日が終わった。食べ物を何も口にいれずお茶と煙草だけで過ごした休日だった。

 

それにしても「小説家になろう」というサイトには時々とても面白い作品を書く素人作家がいるわけだが、みな共通して文章が冗長過ぎやしないだろうか。なまじ話が面白い分そういった冗長さに目を瞑り読み切ってしまうものだから、読了までにあまりにも多くの時間をかけてしまうことになる。これは限られた時間の中でできる限り多くの作品に触れたいと考えている私にとっては不都合なことなのだが、何故だかWeb版原作の文章が簡略化された文庫版を読むと「あれ、なんとなくWeb版のがいいな。」と思ってしまうのだ。自分がその作品の一体どんな部分に良さを見出しているのかということは、時に自分自身にも分からなかったりするということだ。

 

時々このように作品の一気観や一気読みをする度に思うが、面白いと感じた作品を鑑賞する時の私の集中力たるや常人離れした所があると自画自賛したくなる。ひどい時には休日を丸々使って20時間以上連続で作品を鑑賞し続けるものだから、疲れ果てた脳を休めようと眠りについても夢の中でまたその作品を鑑賞していたりする。時には夢の中で作品の世界の中に迷い込んでしまうことすらある。そして眼が覚めればまたその作品を鑑賞したくなり、来る日も来る日もすべきことをそっちのけで作品を鑑賞し続け、遂にその作品が完結を迎えてしまった時には親しい誰かが突然自分のそばから居なくなってしまったかのような空虚感をおぼえる。そんな心に穴が空いてしまったような状態から抜け出すのには少しばかり時間がかかる。概ね1週間から2週間といったところだろう。つまり一つの作品の鑑賞に1週間をかけ、読了後のロスから復帰するのに2週間をかけるとすれば、私はその作品に3週間もの間心のすべてを捧げているということになるのだ。これは作者冥利に尽きるというものではないだろうか。このエントリを丸ごとファンレターとして好きな作家に送りたいものである。

教育と人格形成とスパイラル

小学生の頃、顔がかっこよくてスポーツ万能で成績も優秀というような完璧なやつが居たよな。その逆に顔は醜くて運動も勉強も出来ないようなやつも居たと思う。恐らく日本中どの小学校のどのクラスにだってそういう奴らは居るんじゃないだろうか。

 
子供の頃はそんな人たちを見比べて「不公平だなあ」なんて思っていたけれど、大人になってその格差のからくりが分かってきた。結論から言うと、人間はきっと自信を完全に失くした時点で全てのことが上手くいかなくなっちまうように出来ているんだと思う。
 
小学校に入学して物心がつく頃から、子供は少しずつ集団の中における自分の階層的位置を無意識下で捉え始めるんだ。その判断材料となるものは、例えば容姿だったり足の速さだったり成績といったものだろう。多くの子供達は自分より上の人間と自分より下の人間をみつけて、徐々に可もなく不可もない自分の立ち位置を受け入れるようになる。
 
だけれど、たまに自分より上の人間が集団の中で見つからないような子供がいるね。そいつはきっとこう思うんだ、自分が何でも出来る無敵の人間だって。勿論そんなのは井の中の蛙なのだけれど「自分は出来る」と信じていることはあらゆる分野の成長においてとてつもないアドバンテージを発揮する。何故なら自分が何でも出来ると信じている人間は勉強だって運動だって出来るまでやり続けるからね。その結果出来るようになるし、その成功体験がまた彼らの自信の裏付けになる。そして気が付いたら勉強も運動も集団の中で突出して出来るようになっている。これが正のスパイラルだ。
 
勿論、この逆の負のスパイラルも存在する。これはとても不幸な話だ。自分より下が見つからなかった奴は自分が劣っている人間だと感じる。ここで腐って努力を放棄すれば当然のごとくそいつは落ちぶれていくけれど、何クソ根性で頑張ってもそこには壁が立ちふさがる。それはそいつより少しだけ上に居る奴からの妨害だ。つまり最下層の奴が努力することによって繰り下げで自分が最下位になっちまうことが困る連中は、必死で彼らの足を引っ張ろうとしてくるんだ。それは時にいじめといった形で現れたりするね。
 
もしかしたらこんな上だの下だのといった話は俺の捻くれた脳が生み出した幻想みたいなものかもしれないけれど、俺は物心ついた時にはそんな見方で学校という小さな社会を捉えていたと思う。他の子供たちだって意識的にせよ無意識的にせよ学校での階層的位置、もっと馴染みのある言葉でいえばスクールカーストのようなものを認識していたように感じる。
 
賛否両論はあると思うけど、以上のことを通して思うのは、子供のうちから優れた人間たちの中に身を置くことは必ずしも彼らに良い影響を与えないんじゃないかってことだ。劣った人間ばかりいるところに放り込めという話ではなく、どんな方法を取るにせよやはり子供にはまず「自分が無敵だ」と思い込ませた方が良いような気がするのだ。彼らの可能性を最大限に引き出すためには。

保守

イギリスのEU離脱、アメリカの大統領選挙。いつの時代においてもどんな分野においても、大衆は無気力で、保守に流れる傾向があるようだ。冒頭に挙げたような政治の分野では、それは国粋主義という考え方になって現れる。

 
政治とは全く関係のないソシュールの『一般言語学講義』第1章の言語の不易性の稿を読んで思った。何だって物事を変えるには気力とエネルギーが必要だ。そして知識のある人間はこの二つの力を持っていることが多い。
 
別にリベラル万歳みたいな話ではないけれど、極度に保守的な言説には注意する必要があるってことだ。人間は何も考えなかったらきっとそっちに流れていってしまうのだから。
 
ドナルド・トランプのような人は人間のそんな部分につけこんでくる。今度のアメリカ大統領選挙、共和党が勝利するようなことがあれば世界は間違いなく悪い方向に向かう。

矢印

いいことも悪いことも、自分の行いとは関係のない何かによってもたらされるものと考えれば、気が楽になる。でも、そんな考えの先に進歩はない。

 
身の周りで起こることすべての要因が自分にあると考えて行動を選択する限り、人はいつまでも成長できると思う。そうはいっても、世の中の理不尽な出来事の矢印をすべて自分に向けてたら俺たちはとてもまともじゃいられなくなっちゃうんだな。難しい話だ。

カリスマ

カリスマという用語は色々な学問に出てくる。その中で社会学においてはカリスマを、物理的強制や物質的誘因によらず他人を支配できる人間、と定義している。
 
物理的強制っていうのは法学にも出てくる言葉で、まさに法とか警察っていうのがその好例だ。法律を破れば投獄されるし、警察は銃を持っているという点で一般市民に対して優位性をもつ。物質的誘因の例には、会社なんかが挙げられるだろう。会社は労働の対価に賃金を支払う、そのために労働者は会社に与する。上記のものを抜きにして他人を支配し、動かせる人間のことをカリスマと呼ぶわけだ。
 
カリスマの例として、俺がすぐに思いつくのは宗教の教祖だ。少し罰当たりな話かもしれないんだけど、宗教の教祖がもしそのポストについていなかったとしても、彼らのカリスマは彼らのもとにあったのだろうか?カリスマがあったから教祖になったのか、教祖になったからカリスマを得たのか。「卵が先か、鶏が先か。」という形而上学の難しい話みたいになっちゃうんだけど、つまり疑問に感じるのは、カリスマは天性のものなのかどうかってことなんだ。
 
ここからは俺が勝手に立てた立証のしようがない仮説なんだけど、カリスマっていうのは絶対的に存在する概念じゃなくて、他者から感知されることではじめて存在する相対的な概念なのではないだろうか。つまり、他者があいつはカリスマだと思った時にその人間のカリスマは誕生するんだ。宇宙の人間原理みたいな話だ。だから先の問いに戻れば、カリスマは卵じゃなくて鶏なんだろう。
 
そうであるなら、カリスマになりたければ周りに自分がカリスマだと思わせればいい。カリスマとされている人は自分を魅せる才能に長けているんだ。それだけのことだ。

退化

何よりも怖いのは分からないことじゃない、分からなくなることなんだ。

 
習慣で、帰宅した時に集合ポストの中身を確認するようにしている。ポストは二桁のダイヤルロックで施錠されているんだけど、昨日、その二桁の番号がどうしても思い出せなくなった。何時間考えても思い出せない。たった二桁の番号、それにそれまで毎日何の問題もなく思い出せていたのに。ふと考えれば、最近バイトでもケアレスミスが多くなった。講義で扱うような少し難解な論文が読めなくなった。お酒を飲んで記憶をなくすことが多くなった。会話の中で面白い返しがとっさにできなくなった。
 
これは本当に怖い。本気で脳の検査を考えている。いずれこんな風に自分の考えたことをブログに書くことすらできなくなっちまうのかもしれない。そう、最近自分で書いたブログを見返すと、文章が支離滅裂になってたりするんだ…。ちょっとしたホラーだな。
 
そういや、ブログについてだけど、これは別に誰かに読んで欲しくて書いてるわけじゃない。でも、誰かが読んでくれて、同感してくれたり異論をもってくれたりしたならとてもうれしいなあと思う。聞かれてもないのに自分の哲学を語り出す人間はお酒の席でも白い目で見られる。そんなことわかってるんだけど。

性欲

原因は分からないけど、数ヶ月前から性欲がほとんど無くなった。食生活とか健康状態みたいなところも関係してるのかな、分からないけど。

 
性欲が無くなってから、三大欲求のうちの他の二つ、即ち睡眠欲と食欲の発現が恐ろしいことになっている。休みの日は十五時間以上寝るし、吐くまで食べる。そして吐く。
実家で飼っていた黒猫が去勢してからブクブク太り出していたことを思い出した。僕は一体どうなるのだろう。
 
思うに、男性の性欲っていうのは単に生殖活動にのみ用いられるものではない。例を挙げれば、男性特有の闘争本能や、権力に対する欲求なども性欲が由来になっているらしい。それに、性欲が生み出す想像力、いや創造力は案外計り知れない。特に童貞男性のそれは半端がない。創造力によって0から1を生み出すのが天才だとすれば、世の童貞はみなエジソンアインシュタインと肩を並べる天才といっても過言ではない。