教育と人格形成とスパイラル
小学生の頃、顔がかっこよくてスポーツ万能で成績も優秀というような完璧なやつが居たよな。その逆に顔は醜くて運動も勉強も出来ないようなやつも居たと思う。恐らく日本中どの小学校のどのクラスにだってそういう奴らは居るんじゃないだろうか。
子供の頃はそんな人たちを見比べて「不公平だなあ」なんて思っていたけれど、大人になってその格差のからくりが分かってきた。結論から言うと、人間はきっと自信を完全に失くした時点で全てのことが上手くいかなくなっちまうように出来ているんだと思う。
小学校に入学して物心がつく頃から、子供は少しずつ集団の中における自分の階層的位置を無意識下で捉え始めるんだ。その判断材料となるものは、例えば容姿だったり足の速さだったり成績といったものだろう。多くの子供達は自分より上の人間と自分より下の人間をみつけて、徐々に可もなく不可もない自分の立ち位置を受け入れるようになる。
だけれど、たまに自分より上の人間が集団の中で見つからないような子供がいるね。そいつはきっとこう思うんだ、自分が何でも出来る無敵の人間だって。勿論そんなのは井の中の蛙なのだけれど「自分は出来る」と信じていることはあらゆる分野の成長においてとてつもないアドバンテージを発揮する。何故なら自分が何でも出来ると信じている人間は勉強だって運動だって出来るまでやり続けるからね。その結果出来るようになるし、その成功体験がまた彼らの自信の裏付けになる。そして気が付いたら勉強も運動も集団の中で突出して出来るようになっている。これが正のスパイラルだ。
勿論、この逆の負のスパイラルも存在する。これはとても不幸な話だ。自分より下が見つからなかった奴は自分が劣っている人間だと感じる。ここで腐って努力を放棄すれば当然のごとくそいつは落ちぶれていくけれど、何クソ根性で頑張ってもそこには壁が立ちふさがる。それはそいつより少しだけ上に居る奴からの妨害だ。つまり最下層の奴が努力することによって繰り下げで自分が最下位になっちまうことが困る連中は、必死で彼らの足を引っ張ろうとしてくるんだ。それは時にいじめといった形で現れたりするね。
もしかしたらこんな上だの下だのといった話は俺の捻くれた脳が生み出した幻想みたいなものかもしれないけれど、俺は物心ついた時にはそんな見方で学校という小さな社会を捉えていたと思う。他の子供たちだって意識的にせよ無意識的にせよ学校での階層的位置、もっと馴染みのある言葉でいえばスクールカーストのようなものを認識していたように感じる。
賛否両論はあると思うけど、以上のことを通して思うのは、子供のうちから優れた人間たちの中に身を置くことは必ずしも彼らに良い影響を与えないんじゃないかってことだ。劣った人間ばかりいるところに放り込めという話ではなく、どんな方法を取るにせよやはり子供にはまず「自分が無敵だ」と思い込ませた方が良いような気がするのだ。彼らの可能性を最大限に引き出すためには。
矢印
いいことも悪いことも、自分の行いとは関係のない何かによってもたらされるものと考えれば、気が楽になる。でも、そんな考えの先に進歩はない。
身の周りで起こることすべての要因が自分にあると考えて行動を選択する限り、人はいつまでも成長できると思う。そうはいっても、世の中の理不尽な出来事の矢印をすべて自分に向けてたら俺たちはとてもまともじゃいられなくなっちゃうんだな。難しい話だ。
カリスマ
カリスマという用語は色々な学問に出てくる。その中で社会学においてはカリスマを、物理的強制や物質的誘因によらず他人を支配できる人間、と定義している。
物理的強制っていうのは法学にも出てくる言葉で、まさに法とか警察っていうのがその好例だ。法律を破れば投獄されるし、警察は銃を持っているという点で一般市民に対して優位性をもつ。物質的誘因の例には、会社なんかが挙げられるだろう。会社は労働の対価に賃金を支払う、そのために労働者は会社に与する。上記のものを抜きにして他人を支配し、動かせる人間のことをカリスマと呼ぶわけだ。
カリスマの例として、俺がすぐに思いつくのは宗教の教祖だ。少し罰当たりな話かもしれないんだけど、宗教の教祖がもしそのポストについていなかったとしても、彼らのカリスマは彼らのもとにあったのだろうか?カリスマがあったから教祖になったのか、教祖になったからカリスマを得たのか。「卵が先か、鶏が先か。」という形而上学の難しい話みたいになっちゃうんだけど、つまり疑問に感じるのは、カリスマは天性のものなのかどうかってことなんだ。
ここからは俺が勝手に立てた立証のしようがない仮説なんだけど、カリスマっていうのは絶対的に存在する概念じゃなくて、他者から感知されることではじめて存在する相対的な概念なのではないだろうか。つまり、他者があいつはカリスマだと思った時にその人間のカリスマは誕生するんだ。宇宙の人間原理みたいな話だ。だから先の問いに戻れば、カリスマは卵じゃなくて鶏なんだろう。
そうであるなら、カリスマになりたければ周りに自分がカリスマだと思わせればいい。カリスマとされている人は自分を魅せる才能に長けているんだ。それだけのことだ。
退化
何よりも怖いのは分からないことじゃない、分からなくなることなんだ。
習慣で、帰宅した時に集合ポストの中身を確認するようにしている。ポストは二桁のダイヤルロックで施錠されているんだけど、昨日、その二桁の番号がどうしても思い出せなくなった。何時間考えても思い出せない。たった二桁の番号、それにそれまで毎日何の問題もなく思い出せていたのに。ふと考えれば、最近バイトでもケアレスミスが多くなった。講義で扱うような少し難解な論文が読めなくなった。お酒を飲んで記憶をなくすことが多くなった。会話の中で面白い返しがとっさにできなくなった。
これは本当に怖い。本気で脳の検査を考えている。いずれこんな風に自分の考えたことをブログに書くことすらできなくなっちまうのかもしれない。そう、最近自分で書いたブログを見返すと、文章が支離滅裂になってたりするんだ…。ちょっとしたホラーだな。
そういや、ブログについてだけど、これは別に誰かに読んで欲しくて書いてるわけじゃない。でも、誰かが読んでくれて、同感してくれたり異論をもってくれたりしたならとてもうれしいなあと思う。聞かれてもないのに自分の哲学を語り出す人間はお酒の席でも白い目で見られる。そんなことわかってるんだけど。
性欲
原因は分からないけど、数ヶ月前から性欲がほとんど無くなった。食生活とか健康状態みたいなところも関係してるのかな、分からないけど。
性欲が無くなってから、三大欲求のうちの他の二つ、即ち睡眠欲と食欲の発現が恐ろしいことになっている。休みの日は十五時間以上寝るし、吐くまで食べる。そして吐く。
実家で飼っていた黒猫が去勢してからブクブク太り出していたことを思い出した。僕は一体どうなるのだろう。
整形手術
人の外見っていうのはネット掲示板におけるIDみたいなもので、それ自体が個々を識別する記号のような役割を果たしている。
整形手術によって顔をいじってしまうことは、ネット掲示板で串を刺して書き込むようなもので、ある秩序の中で用いられている識別方式の妥当性を覆してしまう恐れがある。
この秩序の崩壊に対する恐れが、人々が整形手術に抱く漫然とした嫌悪感の正体なのではないか。
目を二重にするのも、脳みそ以外すべてを作り替えてしまうのも、極端にいってしまえば外見を変えるという意味の上では同じことだ。
ある人が一重だった目を二重にした程度であれば、周りの人は整形前のその人と整形後のその人が同一人物であると認識する。でも脳みそ以外すべてを作り替えてしまったらどうだろう?
脳みそ以外すべてが異なった人間を、同一の人間と認識する人は少ないように思う。
つまり問題なのは、整形前と整形後である人が同一人物であるとみなすことができるボーダーラインを設定することができないことだ。
もしそのようなボーダーラインを作り上げることができれば、そのラインの範囲内に収まる限りにおいて、整形手術はもっと社会的に認められてくるような気がする。