introspection

取り留めのない考えごとを忘れないための内省的日記

コミュニケーション能力とは何か

コミュニケーション能力が大事、と一口に言われるけれど、コミュニケーションって一体なんなんだろうね?人に何かを伝える、人から何かを聞く、人と協力する…色々あるけれど、これらに共通するのは主体として「自分」がいて、客体として「他者」がいるということなんじゃないかな。つまり、自己と他者の関係の中で物事を上手くやっていく力のことを、コミュニケーション能力と呼ぶんじゃないだろうか。

 

当然のことを言っているみたいだけれど、この点を忘れている人って結構いるんじゃないだろうか。単に喋りが達者だったり聞き上手だったりすることが、イコールコミュニケーション能力が高いということになる訳ではないんだな。喋りが達者な人は往々にして人の話を聞かないし、聞き上手を自称する人は大抵自分の話をしない。

 

コミュニケーションを上手くとるために一番大事なことって、相手を思いやることなんじゃないかと思う。逆に、コミュニケーションが上手くいかない時っていうのは、自分に矢印が向いている時なんだ。例えば、好きな子と喋るときや採用面接のとき、俺らは「目の前の人に嫌われたらどうしよう」って考える。すると、本来相手に向かうべきだった矢印がどんどん自分の内側に向いてしまって、結局伝えたかったことは何一つ伝えられない、、というようなコミュニケーションの失敗が起こる。他にも、議論の場なんかで「何とかして自分の意見を通したい」なんて思っていると、全体として何も建設的な結果が出ないまま終わってしまったりするね。

 

なぜ自分に矢印が向くとコミュニケーションは上手くいかなくなるのか?なぜなら、そういう時っていうのは大抵集中力が散漫になっているから。だから、人と会話をするとき、きちんと集中して目の前の相手に矢印を向ければ、たとえ口下手でもきっと自分が伝えたいことは相手に伝わるんじゃないかな。

コンテンツ

北川恵海の『ちょっと今から仕事やめてくる』が発行部数70万超えで映画化されたと聞いて、やっぱりこの手の作品は売れるんだなあと。個人の見解だから全くの的外れかもしれないけれど、昨今の小説の売れ線として、「共感」と「逃避」の要素を満たしていること、というのが挙げられるかもしれない。『ちょっと今から〜』は、ブラック企業で働く主人公が同級生を自称する男と出会ったことで人生を変えていく、というあらすじの物語だけれど、これは前述の「共感」と「逃避」の二要素をどちらも満たしていないだろうかな。

 

そもそも、この小説を出版しているMW文庫を擁するカドカワは、社会のニーズを分析して売れる作品を作っていくのがとても上手いし、メディアミックスなんかを用いた作品の売り方も大手出版社の中ではダントツに上手い。例えばウォルト・ディズニーのように映画や出版、インターネットなどあらゆるマスメディアを傘下に収める複合企業のことをメディア・コングロマリットと呼ぶけれど、恐らくカドカワが目指しているのはそういうところなんじゃないだろうか。三年前のドワンゴとの経営統合もその一貫だと考えられるね。

 

本が売れない時代に出版社がそういう施策を打つのは至極妥当なことだと思う。というか、出版社以外にもエンターテイメントやコンテンツを扱う企業は最終的にコングロマリット化していくのかもしれないね。十数年後には任天堂がそんなことになっていたとしても何ら不思議はないけれど、こういう流れはものづくりへのこだわりを殺してしまうかもな。ファンとしてはとても寂しく感じる。

就職活動を終えて

今月の初旬にとある企業から内定を頂いて、就職活動を終えることにした。このエントリでは、恐らく仕事を辞めたがっているであろう未来の自分のために、就職活動の思い出を記しておこうと思う。記事の最後に、来年度以降就職活動に臨む方へのアドバイスも少しだけ書いておいたから、良かったら参考にしてね。

 

就職活動の初期段階では、外資コンサルティングファームやメガベンチャーを中心に選考を受けていた。これらの企業にみられる高額の年俸や完全実力主義の評価制度なんかが、当時の俺の目にはとても魅力的に映ったんだな。そうして就活を進めていく中で、四月の初旬にとある外資系コンサルから内定を頂くことが出来た。その会社は新卒一年目の社員にも約700万円という高額な年俸を支払う一方で、「Up or Out」という言葉で表される非常にシビアな実力主義の根付いた会社だったんだ。面接でも「志望動機」や「学生時代のエピソード」といった日系企業でよく聞かれる質問は全くなく、「君に1億円を渡すので、それを100億円に増やすビジネスを考えてください」といったケーススタディから、市場規模の推計といったフェルミ推定など、論理的思考力や構造把握能力を測る質問がほとんどだった。正直、俺にはコンサルティングファームを志望する明確な動機なんて無かったし、学生時代のエピソードとして語れるような貴重な経験もしていなかったから、こういう独特な面接形式が俺にとって有利に働いたのかもしれないね。

 

ただ、俺はこの会社の内定を辞退したんだ。理由は色々あって、日系企業の選考が始まるまでに内定承諾書を出す必要があったのもそうだし、Vorkersで元社員の口コミを観て不安になったのもそう。でも、一番大きかったのは、選考を通してずっと感じていた違和感だったのかなと思う。面接官の方々は非常にロジカルで賢そうにみえたけれど、彼らと会話をしていく中で「自分はほんとにこういう大人になりたいのかな?」という疑念が浮かびはじめたんだ。簡単に言うと、彼らからは人間味や心の温かさといったものをあまり感じなかったんだね。また学生が甘いこと言ってるよ、と思われてしまうかもしれないけれど、そういう「人間ならでは」の部分を蔑ろにして働くつもりは全くないんだ。なぜなら、今後AIのような技術の進歩に伴って、人間にしか出来ない仕事というのは相対的にどんどん少なくなっていくだろうと考えるからだね。ではそもそも、AIと人間の違いは何か?ということについて考えた時に、以下のようなことが言えないだろうか。AIはロジックで動くけれど、人はロジックでは動かない。どんな人でも、最終的には自分の感情に従って意思決定をしているのだと思うし、そういった観点から考えれば、人を動かしたり、人と協働するためには人の感情を慮ることが絶対に必要になる。つまり、これらの点をしっかりと踏まえた上で行動することで、人にしか出来ない仕事というのは自ずと見つかってくるんじゃないかな。俺は何歳になってもAIに仕事を奪われたくはないし、だからこそ、個々人の感情や思考というものを第一に尊重したいと考えているんだ。

 

話が逸れてしまったけれど、そんなこんなで俺は初めて貰った内定を捨ててしまったんだ。この時から、俺の就職活動には暗雲が立ち込めはじめた。難関といわれる外資系コンサルの内定を獲得したことで、俺は天狗になってしまったんだな。この調子で行けば日系企業も間違いなく受かるだろうと、高を括っていたんだ。しかし、その後の結果から言ってしまえば、メーカー、商社、金融、全て惨敗だった。何社落ちたかなんて数えきれないくらいに落ちまくった。当時の俺にはその理由が全く分からなくて、精神的にもかなりやられてしまったね。でも、今考えると答えは単純明快だ。それは外資系企業と日系企業の人材に対する考え方の違いにある。外資系企業と違って、日系企業は応募者の熱意や会社への想いといったものを非常に重視する傾向があるね。それは転職ありきのキャリアパスを奨励している外資系企業と異なり、日系企業が長期勤続による従業員のキャリア形成を目指しているからだろう。リクルートや野村のような例外こそあれど、基本的に日本の企業というのは社員に定年まで働いて欲しいと考えている。だからこそ、志望動機の浅い俺のような学生は容赦なく落とされるんだろう。

 

就職活動が行き詰まる中、俺は一度立ち止まって自分の本当にやりたいことについて考えてみることにした。その際に助けとなったのが、このブログだったんだ。恥ずかしくて非公開にしているエントリも沢山あるけれど、このブログには自分の好きなものや自分の正しいと思う考えが詰まっていた。まあ、そんなものを読んだところで、結局自分が本当にやりたい仕事なんてものは見つからなかったのだけれど。でも、ブログを読み返したことで、自分が長年考えてきたことを思い出すことは出来た。それからは、面接の場でも青臭さ爆発で自分の考えを語りまくった。これが出来るようになってから面接で落とされることはほとんど無くなったし、落とされたとしても「この会社は合わなかったんだな」と納得できるようになったね。そんな風に就職活動を進めていく中で、心から「ここで働きたい!」と思える企業に出会ったんだ。そしてエントリーシートから最終の社長面接まで一貫して自分の考えを妥協なく伝え続けた結果、晴れてその会社から内定を頂けることになった。人事の方から後で聞いた話だけれど、マニュアルで用意した答えでなく、自分の考えを自分の言葉で率直に伝えていた点を社長や役員の方々が高く評価してくれて、採用に至ったとのことだった。

 

とまあ、こんな感じで紆余曲折がありつつもなんとか無事に就職活動を終えることが出来たわけだね。自分としては納得のいく結果だし、入社を決めたからには全力で頑張りたいなと思ってはいるけれど、やってみたらやってみたで辛いことは沢山あるだろうな。精神的にタフな方ではないから、仕事を辞めたくなっちゃうこともあると思う。そんな時は、内定を頂いた時の喜びとか、承諾書に判子を押して入社を決めた時の気持ちを思い出して、もう一度立ち上がることが出来るといいね。就職活動で壁にぶち当たった際にこのブログが助けになったように、このエントリが将来の自分の助けになることを願って、長ったらしく書いてみたよ。

 

最後に、就職活動を控えた皆さんにアドバイスを残しておきたい。具体的な方法論などは挙げだしたらキリがないので、最も重要だと思うことを一つだけ記しておく。それは、この手の就活に関するアドバイスを参考にしすぎない、ということだね。俺みたいな内定者や社会人数年目の先輩が訳知り顔で「就活ってのはなあ、」と助言をくれることがあると思うけれど、そんなものは話半分に聞いておけばいいと思う。就職活動ほど他人の成功体験が参考にならないものはないからね。俺は自分の好きなことを仕事にするという方向で後半の就活をしたけれど、これが全ての人にとって正解とは当然限らない。だからこそ、自分にとっての正解は自分で見つけるしかないんだと思う。その助けになるのは、自分が過去の経験の中で培った価値観だったり、自分が将来実現したいと思う理想だったりするわけだね。そうやって見つけた自分の本当の気持ちから出る言葉というのは、多少拙くてもきっと面接官の心に響くものになるんじゃないかな。

 

大学入試センター試験の廃止について

センター試験といえば大学入試の登竜門だ。国公立大学に進学しようと思ったら、受験生はまずこの試験を突破しなければならない。最近では私立大学もセンター利用入試を導入しているから、今の大学受験生のほとんどはセンター試験を受けることになるんじゃないかな。

俺たちにとっても思い出深いこのセンター試験だけど、どうやら2019年度入試を最後に廃止されるらしい。代わりに達成度テストなるものが実施されるらしいけど、その内容については現在のところ未定であるとのことだ。

 

センター試験廃止の目的は、学力至上主義の詰め込み暗記型教育からの脱却だそう。要するに、受験戦士のようなガリ勉を量産する現行の入試制度は捨てて、主体的に周囲と協働して目標達成できる若者を育てられるような仕組みを作りましょうってことだね。

こういう流れはべつに今に始まったものじゃない。数年前に東大や京大が推薦入試を導入したのは記憶に新しいし、各大学は入学後も机上の勉強に留まらない留学やボランティア活動のような課外活動を学生に奨励している。そして、恐らくほとんどの学生が経験することになる民間企業の就職活動においても、こうした課外活動の経験は学業成績以上に重視されている。

 

こういう流れを悪いことだとは思わない。沢山の場に足を運んで色々な人と交流することでコミュニケーション能力やら主体性といった力は確実に身につくし、ひいてはそれが人間力の向上ってところに繋がるんだろうなと思う。

 

でも、冒頭の大学入試制度改革については反対なんだ。この改革の目的は学力っていう画一的な評価基準に依らない多様な若者を育てるために提案されたようだけど、俺は逆にこの改革こそが強固な「こうあるべき規範」を作り出して、評価基準の画一化を招く気がするんだね。

 

どういうことか。少し話は逸れるけど、民間の就職活動において企業が求める人材像っていうのは、業種や職種の垣根を越えてほとんど一致している。耳タコだけど、「主体的に考え、行動できる人」とか「周囲と協働して目標を達成できる人」とか「コミュニケーション能力がある人」っていうのはほとんど全ての企業で歓迎されるね。そして、これらの人物像は大学入試制度改革によって国が作り上げようとしている若者のあり方と完全に一致している。要するに、国は教育システムを大きく変えることで、社会に適応できる若者の総量を増やしたいんだな。少子化やらニート・フリーターの増加が叫ばれてる中でこういう方向に政策の舵が切られるのは、至極妥当なことだと思う。

 

だけど、街に出たりインターネット上のSNSを観れば分かるように、この国にいるのは上で挙げたようなまともな若者ばかりじゃないんだ。その要因が彼らの内にあるか外にあるかは別として、学校に行かない奴もいるし、他人と話せない奴もいる。かくいう自分も昔はそんな感じだったね。

 

でもね、現行の大学入試制度では、そんな子たちでも試験で点数さえ取れれば大学に入れるんだ。医学部でもない限り大学入試に面接試験はないから、不登校でもヤンキーでもコミュ障でも筆記試験に合格するだけで東大にだって入れる。東大に入れば人生が変わるなんてことは絶対にないけど、少なくとも何かを変える好機は手に入るんだ。これは今の日本では他にありえないくらい平等なシステムで、落ちこぼれにとっては大きな大きな逆転のチャンスとなる。

 

しかし、冒頭の制度改革が実際に運用されれば、もはや試験で点数を取るだけではダメになってしまう。学力に加えて人間力も必要になってくるわけだからね。でも、18歳くらいまでの若者が身に付ける人間力っていうのは、親や生まれた環境に依るところがほとんどだと思うんだ。だからこそ、クソな親を持った子供にもチャンスを与えるために、現行の大学入試制度は絶対に必要だと思う。

 

最後に付け足しておくと、いわゆる高学歴クズなんて呼ばれる、勉強が出来ても人間力が皆無な奴は就職活動で淘汰されることが多いね。でも、それはもう本人の責任だ。なぜなら、就職活動を経験する22歳っていうのは、年齢だけみればもう大人だから。上手くいかないことを親や環境のせいにしていい歳じゃないんだな。このエントリを通して誤解を招きそうだと自分でも思うけど、社会に適応できない奴も認めるべきだって言っている訳ではないんだ。個人的にはそういう人がいてもいいと思ってるけど、国や社会全体の利益っていう観点からみるとやっぱりそれはまずい。そうじゃなくて、周囲にクズや落ちこぼれとして扱われている子供にも、社会で活躍する人間になれるチャンスを与えたいってことなんだ。

 

もう一度まとめると、外部の環境要因によって上手くいっていない子、もしくは上手くいっていない理由が内にあるか外にあるかまだ判断出来ないような子については、現行の大学入試のような逆転のチャンスを与えてあげようぜってことだ。それに、この制度改革によって大学が民間企業のように自由闊達で人当たりが良くて部活やボランティア活動に積極的に励む高校生のみを集めるようになったら、親や教師は確実に子供達をそういう規範のもとで縛るようになる。それではもはや、自由闊達とは真逆の子供が出来上がってしまうよな。

俺とポケモン

子どもの頃は身体が弱くて、病院に入ることがよくあったんだ。入院すると俺は大抵同年代の子どもたちと同じ病室に入れられるんだけど、当時はあまり人と話をするのが得意じゃなくて、他の子どもたちが皆で仲良く遊んでいる時だって俺は「日本の鉄道車両図鑑」みたいな本を一人で読んでいたんだな。そんな俺を見かねたお父さんが、ある日俺にゲームボーイをプレゼントしてくれたんだ。「ポケモンピンボール」というカセットと一緒にね。これが俺のゲームとの、またポケモンとの出会いだったな。ゲームボーイを持っている子どもは当時そこまで多くなかったから、俺はたちまち病室の人気者になることができた。

 

そんなこんなで、退院してから小学校に上がるまで俺はずっとポケモンに夢中になっていた。「ポケットモンスター金銀」が発売されたのもちょうどこの時期だったかな。実は「金銀」は小さな子どもにとって中々難易度の高いゲームで、一人で攻略することが出来なかった俺はよくお父さんの力を借りていたんだ。ワタルを倒したのもレッドを倒したのも、お父さんだったような気がするな。俺はそれを脇から見て、「すげー!」って言ってるだけだった。

 

小学校二年生の夏休みに両親が離婚して、お母さんに引き取られた俺は今までと別の小学校に通うことになった。その時も引っ込み思案な性格が災いして、俺は転校早々クラスの中で孤立してしまっていたんだ。だから俺は学校が終わるとすぐに家に帰って、お母さんが仕事から帰ってくるまで一人で昔お父さんがクリアしてくれた「金銀」をプレイしていた。当時のことを思い出すと、子どもながらに中々辛いことが多かったような気がするよ。大人になってから母親に聞いた話だけど、当時の俺はストレスで軽度のチック症を発症していたらしいんだ。チック症というのは何も知らない周りの子どもたちからみると少し気味が悪く見えてしまうものだから、そういったことも俺に友達が出来ない一因になっていたのかもしれないね。

 

その後転校して二ヶ月が過ぎた頃だったかな、ポケモンの新作「ポケットモンスター ルビーサファイア」が発売された。ルビサファは俺が持っていたゲームボーイじゃプレイ出来ないソフトだったんだけど、どうしても新作のポケモンで遊びたかった俺はお母さんにお願いして新しいハードとソフトを買ってもらったんだ。離婚してからうちはもうめちゃくちゃ貧乏だったから、きっとそれは当時のお母さんにとって大きな出費だったと思う。それでも、お母さんは嫌な顔ひとつせずに買ってくれたな。今でもお母さんと一緒にゲームボーイアドバンスルビサファを買いに行った日のことはよく覚えているよ。ゲームボーイアドバンスは地元のおもちゃ屋ですぐに買えたんだけど、ルビサファは当時ものすごい人気で、どこのおもちゃ屋でも売り切れになってしまっていたんだ。結局発売日にはソフトを手にいれることが出来なくて、俺はその日めちゃくちゃ泣いてお母さんに当り散らしたんだよ。すると翌日、仕事から帰ってきたお母さんはお土産だよ、といって俺に「サファイア」をプレゼントしてくれたのさ。きっと仕事が終わったあと、車で市外の大きなおもちゃ屋まで出て買ってきてくれたんだろうね。疲れてただろうに、ありがたい話だよ。

 

それから俺は友達と外で遊んだりせずにずーっと一人でポケモンをやっていたから、ポケモンに関する知識は誰よりもあった。クラスメイトからのポケモンに関する質問に答えてるうちに、いつしか俺はクラスのポケモン博士と呼ばれるようになって、それがきっかけで何人かの友達も出来るようになったんだ。そう、こうしてふと昔のことを思い出すたびに、俺はポケモンとお父さんとお母さんに感謝しなければならないなあと思うわけだね。

分節

自分の考えを文章に書き起こすというのは、時に難しいことだよ。こうしてほとんど泥酔しているような場合では特にね。でも、極力伝わりやすいよう、誤解のないように書くことはいつだって心がけている。

さて、自分以外にこの世界に存在する他者が自分と同じように思考し、意思決定を行う人間だと仮定すると(敢えて仮定というのは、例えば自分以外の人間がゲームのNPCのような存在でないことを、我々はもちろん証明できないからだね)、我々がこの世界で生きていくには分節という作業が必要不可欠になる。分節ってのは文字通り、ケーキをカットするみたいに物事を分けることだな。これとこれは分ける、これとこれは分けない、そんな風にあらゆる物事を分節していかなければ、我々はこの世界で自我を持って生きていくことは出来ないわけだ。

つまり、自分と他人をしっかり分節していないと、当然の帰結として自分ってものはなくなっちゃうんだな。焼酎と烏龍茶を混ぜてしまった後で、そこから烏龍茶だけを抽出することができないようにね。

まあ、そんなに深く考えなくてもほとんどの人間は分節を生得的な観念として身につけている。だから何も心配はいらないんだ。でもね、俺もみんなも生きていれば混ざり合いたいほどに愛おしい他者に出会うことがあるかもしれない。困ったことに、そんな時だって我々は自分と他者を分節せずにはいられないんだよ。なぜなら分節こそが自分を自分たらしめる唯一の手段だからだ。つまり、自分とは「他者ではないもの」でしかなくて、それ以外に自分を定義するものはまあ恐らく何もないわけだよ。あったら教えてね。

だから、まともなやり方をしている限りにおいては、基本的に人と人は交われない。考えてみれば、こうして言葉にするまでもないあまりにも当然なことなのだけど、このことを孤独と感じてしまうことがあるかも分からないね。ままならないことだ。だけどね、何も交わらなくたって隣に置いておくくらいのことは出来るわけだよ。それで妥協するのはどうだろう?そもそも分節している自分自体いつなくなってしまうか分からないのだから、交わることに固執する必要も、時間もないと思うんだ。

育ち

俺も小さい頃はそんなに幸せな家庭で育ったわけではなかった。だからなのかは分からないけど、初対面の人と話した時に「なんとなくこの人も特殊な育ちをしたのかな」と察してしまうことがある。必ずしも当たるとは限らないけど、打率八割くらいは維持しているんじゃないだろうか。

 

もちろん自分も含めてだけど、特殊な育ちをした人っていうのはなぜだか人間的に薄っぺらくみえてしまうことがあるんだ。気を悪くしないでほしいな。俺が自分の薄っぺらさに常日頃辟易していて、自分とよく似た他人にその嫌悪感をぶつけてしまっているだけかもしれない。だから全員が全員薄っぺらいなんていうつもりはないんだ。ただそんな人が割合に多いような気がして。

 

どうしてそんな印象を抱くのか?俺自身の内省も含めてちょっと考えてみたよ。たぶんだけど、特殊な育ちをした人っていうのは子供の頃に周りの人間の顔色を伺ってきたことが多かったんじゃないだろうか。いや、そうせざるを得なかったともいえるね。俺も小さい頃はいつも家庭内の空気を察知して上手く両親の気持ちを慮っていたな。そうしないと夫婦喧嘩に巻き込まれたり、思わぬとばっちりを食らうことがあったからね。前にも何かのエントリで書いた気がするけど、長く続けている習慣っていうのは大人になっても頭に強固に刻まれ続けるようだ。今となっては必要以上に他人に気を遣う必要なんて全く無いのに、昔の癖が抜けずに俺も大変困っている。

 

そんな風に自分以外の人間ばかり見つめて行動を決定していると、自分はどんどん他者からみて好ましく、害のない存在に適合化されていってしまう。同年代の子たちが彼ら自身と向き合ってアイデンティティを確立していく中、俺たちはいつだって人の顔色ばっか伺ってたんだ。だから大人になった時、アイデンティティの土台がしっかりと確立されている彼らとの間にはとても大きな差が開いてしまうんだな。

 

つまり人間的な薄っぺらさっていうのは、確固とした自己というものの欠如がもたらすものなのかもしれないね。小さい頃に苦労した分、経験値を与えてレベルアップさせてくれればいいのに、なんて思うけどな。どうやら小さい頃の苦労は、レベルアップどころかレベルダウンを招いてしまうらしい。乾いた笑いが出てきちゃうね。